2012年07月12日

プラチナ・ギルド・インターナショナルは12日、「第4回プラチナ・ミューズ アワード」を開催し、本年度のミューズとして女優の木村佳乃を表彰!「本物は永遠、普遍、プラチナ・ジュエリーのように輝き続けたい」



プラチナ・ジュエリーの国際的広報機関であるプラチナ・ギルド・インターナショナル(Platinum Guild International)は12日、「第4回プラチナ・ミューズ アワード」を開催し、本年度のミューズとして女優の木村佳乃(Yoshino Kimura)を表彰した。

 プラチナ・ミューズ アワードは、時を超えてもエレガントでその輝きが変わらないプラチナ・ジュエリーのように、美しさを保ち、女性が憧れる最も輝いているワーキング・ウーマンをこれまで表彰してきた。過去には、女優の米倉涼子(Ryoko Yonekura)や滝川クリステル(Christel Takigawa)、中谷美紀(Miki Nakatani)が受賞。第4回目となる今年は、女優として母として、ますます輝きを増して活躍する木村佳乃が受賞した。「本物は永遠、普遍。このプラチナ・ジュエリーのように輝き続けられるよう、がんばりたい」と語った。
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2012年06月20日

女優マリリン・モンロー(Marilyn Monroe)の没後50周年にあわせ、米ハリウッドのハリウッド・ミュージアムで展覧会「Marilyn Monroe: The Exhibit」が6月1日から9月2日まで開催



女優マリリン・モンロー(Marilyn Monroe)の没後50周年にあわせ、米ハリウッドのハリウッド・ミュージアム(Hollywood Museum)で展覧会「Marilyn Monroe: The Exhibit」が開催されている。

 会場には、野球選手のジョー・ディマジオ(Joe DiMaggio)との結婚式で着用した「シール・チャップマン(Ceil Chapman)」のウエディング・ドレスやマリリンが愛用していた家具、家族写真など、貴重なコレクションがずらり。



 なかでも見どころは、フォトジャーナリストのジョージ・バリス(George Barris)が撮影したマリリンの未公開ショットだ。「アメリカのセックスシンボル」と称されたマリリンのひと味違う姿を楽しめる。

 会期は、6月1日から9月2日まで



★Marilyn Monroe マリリン・モンロー
本名ノーマ・ジーン・モーテンセン
Norma Jeane Mortensen
ノーマ・ジーン・ベイカー
Norma Jeane Baker
生年月日1926年6月1日
没年月日1962年8月5日(満36歳没)
出生地カリフォルニア州ロサンゼルス
死没地カリフォルニア州ロサンゼルスブレントウッド
国籍アメリカ合衆国
職業女優
ジャンル映画

活動期間
1947年 - 1962年

配偶者
ジム・ドハティ
ジョー・ディマジオ
アーサー・ミラー

主な作品
映画
紳士は金髪がお好きGentleman Prefer Blondes
七年目の浮気The Seven Year Itch
バス停留所Bus Stop
お熱いのがお好きSome Like it Hot
荒馬と女The Misfits

受賞
ゴールデングローブ賞
主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)
☆1959 『お熱いのがお好き』Some Like It Hot

マリリン・モンロー(Marilyn Monroe、1926年6月1日 - 1962年8月5日)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス出身の女優。旧名、ノーマ・ジーン・モーテンセン(Norma Jeane Mortensen)。本名、ノーマ・ジーン・ベイカー(Norma Jeane Baker)。

概要

1950年代中盤から現在に至るまで「アメリカのセックスシンボル」と称される。モンローというステージネームは彼女の母親の姓である。

身長166.4cm、体重53.5kg。スリーサイズはB94 W61 H86。トレードマークは、真っ赤に塗られた唇、口元のホクロ、モンロー・ウォークと呼ばれた独特な歩き方。フェラガモに作らせた靴のサイズは、24.5cm。ノルウェー人の血を引いているといわれるが、本当の髪の色はブロンドではなく褐色(ブルネット)であった。

経歴

生い立ち

ノーマは片親家庭に生まれた。アメリカ合衆国には戸籍がないので、出産直後に医者が書く出生証明書が法的な意味をもつことになっている。彼女の出生証明書には、父:エドワード・モーテンセン、母:グラディス・モンロー・ベイカー、氏名:ノーマ・ジーン・モーテンセンと記載されていて、彼女の本名がノーマ・ジーン・モーテンセンであることに異論はないが、母と同じアパートに住んでいたスタンリー・ギフォードという男性が本当の父親であるという説もある。

後年大人になったノーマがギフォードに電話したことがあるが、会うことは拒否されている。モンローは正式な書類にサインするときはモーテンセンの姓を使ったが、そうでないときは母親の姓を使ってノーマ・ジーン・ベイカーと名乗ることが多かった。

ノーマという本名の由来は、映画好きな母グラディスが当時好きだった女優ノーマ・タルマッジからとったとされる。ジーンは1930年代のセックス・シンボル、ジーン・ハーロウに由来する。母グラディス・ベイカー(旧姓モンロー)は「モンロー宣言」で知られるジェームズ・モンロー大統領が先祖であると周囲にもらしていたが、娘のモンロー自身は一笑に付したとされる。

日本語訳されている評伝のなかには、モンローは孤児だったと記されているが、母親がいたのだから日本語では孤児と呼ぶことは出来ない。これは彼女が孤児院(orphanage)や養子として育てられたために受けた誤解である。またモンローには父親違いの7つ年上の姉が居る。姉とは女優になってからも気にかけていて、手紙をやりとりし互いに訪ね合うほど親交があった。その姉はモンローの葬儀に参列している。ジョー・ディマジオと共に葬儀の準備にあたり、マリリンの死装束を選んだのも他ならぬこの姉であった。

モンローの母親は大手映画製作会社のRKOでフィルムカッターの仕事をしていたが、精神病を患っていて職場の同僚グレース・マッキー(後に結婚してGoddard「ゴダード」)が彼女の保護者になった。マッキーが1935年に結婚した後、モンローはロサンゼルスの孤児院へ、その後伝えられるところでは性的虐待及びネグレクトで支配された養家へ連続して送られ、そのせいか吃音症を患うようになってしまった。当時の大統領の政策で、里親には支給された援助金目当てで子供を引き取る家もあったとされ、モンローもいくつもの家をたらい回しにされるなど大事に扱われたとは言えなかった。

最初の結婚

第二次世界大戦下の1942年、16歳のときに半年で高校を中退しグレース・ゴダードの叔母で母の友人アナ・ロウアーのすすめで、母の家の近所に住むジム・ドハティと最初の結婚をする。ジムはロッキード航空機製造会社に整備工として勤務していたが、その後海軍に徴兵され輸送船団に乗り組むことになった。独りになったノーマは航空機部品工場レイディオ・プレーン社に就職し、自活の道を歩き始めた。

ハリウッドへ
第二次世界大戦末期の1945年の19歳の誕生日を迎えて間もなくのこと、工場で働いていた時に陸軍から取材に派遣された報道部員デビッド・コノバー一等兵に見出され、写真を撮られる。この写真が陸軍の機関誌『ヤンク』に掲載されたことを機にハリウッドへの道をたどることになる。コノバーにそのネガを見せられた商業写真家のポッター・ヒューズにカバーガールになることをすすめられ、モンローは工場を辞めてハリウッドのモデルクラブ「ブルーブックス・モデルズ・エージェンシー」の専属モデルに応募した。モデルの基礎教程を終えたノーマの初仕事は、ロサンゼルス博覧会場でのイベントコンパニオンであった。

やがて新進の写真家アンドレ・ド・ディーンズと知り合い、モデルとしての才能を発見される。この年、二人で長い撮影旅行に出かけている。ド・ディーンズはマリリンがモンローになる前のノーマ・ジーンの初々しい姿をカメラに収めた。その後、髪をゴールデン・ブロンドに染めたセクシーなピンナップが売りものの雑誌に写真が掲載されるようになる。

女優になる

1946年、20世紀フォックスのスクリーン・テストに合格し「マリリン・モンロー」という芸名で契約を結んだ。マリリンの名は1920年代のブロードウェイの美貌の舞台女優マリリン・ミラーに由来している。なお夫のジムはモデル業に理解を示さず結婚から4年で離婚した。

1947年に20世紀フォックスの『嵐の園』という映画に端役で初出演するが、あまりぱっとせずに契約を切られてしまったが、彼女は女優への夢を諦めきれずコロムビア映画に移籍、『コーラスのレディたち』で準主役となる。コロムビア映画とはその映画一本のみで終わってしまったために、その後は再びヌードモデルなどをしながら演技の勉強をし、エージェント(交渉代理業者)を探し続けた。生活が苦しく家賃や車の月賦が払えなかったためにカレンダーのヌードモデルになった(写真家トム・ケリー撮影の「ゴールデン・ドリーム」と呼ばれる作品で有名)。しかしこのことが後にスキャンダルを巻き起こすことになる。

トップスターになる

1951年にエージェントのジョニー・ハイドの尽力で『アスファルト・ジャングル』、『イヴの総て』に出演、注目される。以後、数本の映画に脇役で出、1952年の『ノックは無用』で準主役。1953年『ナイアガラ』では不倫相手と夫の殺害を計画する悪女を主演し、腰を振って歩く仕草(モンロー・ウォーク)で世の男性の注目を集める。続く『紳士は金髪がお好き』、『百万長者と結婚する方法』や『七年目の浮気』が大ヒットして一躍トップスターとなった。

1954年1月14日、野球選手のジョー・ディマジオとサンフランシスコ市庁舎で結婚。2月1日、読売ジャイアンツの招きもあり、新婚旅行を兼ねてパンアメリカン航空のボーイング377で日本を訪れ、東京国際空港で大歓迎を受けた。

野球の仕事を兼ねていたディマジオは、滞在中忙しく外へ出かけることが多かった。野球に興味のなかったモンローは宿泊先の帝国ホテルで待つ日々が続いた。そんな折、朝鮮戦争で駐留していた在韓米軍を慰問してほしいという依頼が舞い込む。暇を持て余していたモンローに断る理由はなかった。行くなと反対するディマジオと喧嘩するようにして韓国へ向かった。モンローはヘリコプターに乗り、ジープや戦車を乗り継いで駐屯地を回り、多くの兵士たちを前にして歌った。

1955年に、関係が悪化していたディマジオと離婚した。結婚生活は9か月しか続かなかった。その後、セックスシンボルを脱したかった彼女は、ニューヨークに移りリー・ストラスバーグが主催するアクターズ・スタジオで演技の指導を受けている。『アンナ・クリスティ』、『欲望という名の電車』を演じ好評を博したことは彼女に自信を取り戻させた。

1956年には劇作家のアーサー・ミラーと結婚するが、1957年頃から不安定な状態が続き、睡眠薬を飲み過ぎたりして、精神病院に入ったりもした。UCLA教授のラルフ・グリーンソンによる精神分析を受け続けた。また、アンナ・フロイト(ジークムント・フロイトの娘)には境界性パーソナリティ障害と診断されたが、正確なところは分からない。この頃流産を経験した。

ケネディ兄弟との不倫
1961年にミラーと離婚。この前後から、ケネディの妹の夫のピーター・ローフォードやフランク・シナトラの紹介で前年に大統領となったジョン・F・ケネディと肉体関係にあったことが、ローフォードやモンローの家の家政婦のレナ・ペピートーンなどにより証言されている[3]。 また、ジョンの弟で司法長官を務めていたロバート・ケネディとも関係があったとも囁かれたことがある。

同年に封切られた映画『荒馬と女』の評判が悪く、また共演したクラーク・ゲイブルが撮影終了後に急死したことも重なり、不安定になり再び精神病院に入院。この時、よりを戻した元夫ディマジオが彼女を支えた。翌1962年に、映画『女房は生きていた』の主演になるが、たびたび撮影をすっぽかすため制作はほとんど進まなかった。『女房は生きていた』の主役は結局降ろされた(のちにドリス・デイ主演で公開)。

なおジョン・F・ケネディとモンローとの関係は、ケネディがサム・ジアンカーナらマフィアと関係の深いシナトラを介してモンローと知り合った上に、ジアンカーナが2人の関係を知っており、このことをマフィアの取り締まりを強化しようとしていたケネディ政権に対する取引に使おうとしていたことを憂慮したFBIのジョン・エドガー・フーヴァー長官が、ロバートに忠告したことでこの年に終焉を迎えた。

しかしながらモンローは、その関係が終焉を迎えた直後の1962年5月19日に、ニューヨーク市のマディソン・スクエア・ガーデンで行われたケネディの45歳の誕生日パーティ(司会はローフォード)に、体の線が露わになったドレス姿で赴き、『ハッピーバースデートゥーユー』を歌い、「いつ引退しても悔いはない」とケネディに言わしめた(ハッピーバースデー・ミスタープレジデントも参照。なお、ケネディは翌年凶弾に倒れている)。

なお、この際にケネディとモンローの性的関係を快く思っていなかったジャクリーン夫人は、誕生日パーティーにモンローが来ると知ってあえて欠席した。

死と波紋
遺体が発見されたモンローの家(1992)
1962年8月5日、自宅の寝室で全裸で死んでいるのが発見された。没年36歳。死の直後、マスコミでは「死因は睡眠薬の大量服用による急性バルビツール中毒で、自殺の模様」と大々的に報道され、世界に多大な衝撃・悲嘆が駆け巡った。

ただのドラッグ・オーバードースであるとの声もある上、「『女房は生きていた』の主役を降ろされたことを悲観して」との根拠に欠ける仮説も唱えられたが、2000年代に入りFOXニュースが20世紀フォックスの倉庫から発見した資料によると、FOX首脳部との会談で、モンローとそりの合わなかった監督を降板させ、モンローを復帰させる契約が交わされていたことが分かった。さらに、「何という行き方!」というミュージカル大作への出演も決まっており、「モンローが配給会社から見捨てられ、失意の中で死んでいった」という仮説は成立しなくなることが分かった。

1980年前後以降は自殺説は影を潜め、何者かによる謀殺説が根強く叫ばれ続けている(謀殺説はモンローの死後間もない時期から存在していた)。現場からは自殺に使うはずのコップは発見されておらず、また彼女が遺体で発見されたとき、手には受話器が握られていたものの、FBIが押収したモンローが死亡した前日と死亡した夜の電話の通話記録[7]には電話局からは同時刻の通話記録はなく、部屋からは彼女の日記(赤い手帳)が消えていた。そのため電話の通話記録の改ざん・隠蔽を行うことができる政治力の持ち主がモンローの死に関わっていたとする主張がある(「急性バルビツール中毒による体の不調を受けて救急車を自ら呼ぶために受話器を取ったものの、ダイヤルする前にこと切れた」という説もある。

なお、ケネディ大統領と1950年代より不倫関係にあったことが、上記のように死後複数の証言から暴露された上、お互いを紹介したのが、ケネディの大統領選挙の際の支援者でマフィアの大ボスのサム・ジアンカーナと関係の深いシナトラであったことが、この謀殺説を後押ししている。また、ケネディ大統領の弟であり当時の司法長官だったロバートとも不倫関係にあったことがあきらかになっており、これらの不倫の事実が死後に公にならないように、モンローが常に会話の内容をメモしていた赤い手帳が表に出るのを避けたという話もある。

葬儀

モンローの墓
モンローを司法解剖した監察医は、トーマス野口こと野口恒富である。葬儀は元夫ジョー・ディマジオが取り仕切った。映画界からの参列はすべて固辞された。

その墓所は故郷ロサンゼルスのウエストウッド・メモリアルパークにある。彼女の死後、ディマジオの計らいで、定期的に赤いバラ(品種:アメリカン・ビューティー)が供えられていた。ディマジオの亡き後は、ファンクラブなどのボランティアの手で続けられている。

受賞歴

ゴールデングローブ賞
受賞 1954年 ヘンリエッタ賞: 1960年 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門):『お熱いのがお好き』 1962年 ヘンリエッタ賞: ノミネート 1957年 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門):『バス停留所』



エピソード

記者に「夜は何を着て寝るのか?」との質問に「シャネルの5番よ」と答えたエピソードはあまりにも有名である。
最初の夫ジム・ドハティが、ロッキード航空の製造会社で整備工をしていたとき、同僚に、後に俳優になったロバート・ミッチャムがいた[10]。ミッチャムは映画「帰らざる河」でモンローと共演。ドハティがノーマ・ジーンの作った愛妻弁当を職場に持ってきたことがある、とミッチャムは2人の新婚当時の様子を証言している。
陸軍報道部員デビッド・コノバーを取材に派遣した当時の上司は、ロナルド・レーガンであった。後年モンローは、ディナーの席でたまたま隣に座った俳優レーガンと言葉を交わしている。
モンローのデビューにあたり20世紀フォックスは、モンローのプロフィールで年齢を2歳サバを読んで発表していた。そのため映画解説者の淀川長治も、「彼女は34歳で亡くなりました」と、日曜洋画劇場の解説で言ったことがある。

グローマンズ・チャイニーズ・シアターの前庭に、「紳士は金髪がお好き」で共演したジェーン・ラッセルと共に、手型・靴型・サインを残したのは、1953年6月26日のことであった。ジェーンがうつぶせになって胸を、モンローが座ってお尻の跡をつけようとのモンローの提案は受け入れられなかった。サインのMarilynのiの点にダイヤモンドを使ったらどうかとの提案には、結局模造ダイヤを使うことになったが、観光客が削っていってしまった。

1954年2月1日、新婚旅行で来日したモンローであったが体調をくずしてしまう。予定されていた記者会見も顔見せ程度でキャンセルされ(翌日に延期された)、早々と帝国ホテル2階244号室にひきこもった。長旅で疲労困憊、胃痙攣もおこしていた。医者が呼ばれ、痛み止めの注射をしようとしたがモンローはこれを拒否。それではと治療のために呼ばれたのが、「指圧の心は母心」で有名な浪越徳治郎であった。浪越は全裸のモンローに指圧を施した[14]。指圧のおかげで生気を取り戻したモンローは、ホテルの外で、顔を一目みるまでは帰らないぞと待っている群衆の期待にこたえ、バルコニーから手を振った。

モンローに戒名をつけた人がいる。1973年8月5日に東京都世田谷区の大吉寺本堂で、住職で作家の寺内大吉(当時はキックボクシングの解説でも知られた)が、モンロー13回忌の法要が営まれた。経をあげモンローに「鞠利院不滅美色悶浪大姉(まりりいんふめつびしょくもんろうだいし)」という戒名を捧げた。

モンローが眠る墓所ウエストウッド・メモリアルパークには、モンローと関係のあった人たちも眠っている。モンローの葬儀を取り仕切っていたジョー・ディマジオが、ノーマ・ジーンの育ての親であるグレース・ゴダードとアナ・ロウアーがこの墓地に埋葬されていることを知って、モンローの墓所にこの墓地を選んだといわれている。これを機にこれ以降多くの芸能人の墓所としてこの墓地が選ばれるようになった。

1985年9月23日ロサンゼルス市警は、当時の捜査資料を公表した。この中で、他殺説を裏付ける証拠はなく、ダリル・ゲイツ署長も記者会見で「明らかに自殺といえる」と述べた。この日、公表された捜査資料は全132ページ、厚さにして1cm強。モンローの関係捜査資料は死亡時から約10年間、非公開書類として保管された後、1973年に廃棄されたが、当時の捜査担当官故タッド・ブラウンが個人的にその写しを保管していた。今回の公表資料はそれをコピーしたものという。

資料はトーマス・ノグチ・ロサンゼルス郡検視局検視官(当時)による解剖所見のほか、関係者の事情聴取記録やモンローの死亡前後の電話通話記録など。モンローの死については一時、他殺説が流れたことから、同市警も再捜査した。この再捜査記録も今回含まれているが、他殺説を証拠立てる資料は見当たらない、と結論づけた。

イギリスの大衆紙「ピープル」は、1990年7月2日の紙面で、モンローに隠し子がいたと報じた。同紙は1面に「マリリン・モンローに英国育ちの隠された子がいた!」と大見出し、中面の1ページ全体を使ってこの情報を伝えた。
同紙によれば、モンローの元恋人で米国人作家のテッド・ジョーダンが出版する著書『マリリン・モンローの秘められた生活』の中で記しているもので、モンローが1947年、21歳のときに生んだ子で、相手は当時交際のあったミュージシャンとのこと。子どもの名はナンシーといい、すぐ養女にだされ、養父が英国人だったため、イギリスのサウサンプトンに移され育てられた。虐待を受けたため17歳で家出。豪州に渡り、南太平洋の島々を転々とし、現在は豪州タスマニア島で、地道に宗教活動をしていて、苦心の末ナンシーに会ったというジョーダンによれば、唇と脚線美は母親そっくりだという。
(モンローは、「十代のときに子どもを産んだことがある」と親しかった友人ジーン・カーメンに打ち明けている。
一方で、検死を行ったトーマス野口は、モンローが「出産した痕跡はない」と証言している)。
「生まれつき左足が6本指で、手術で治した」という俗説があるが、これは誤りである。詳細は多指症#多指(趾)症の人物の項を参照。
モンローと親交のあった作家トルーマン・カポーティの小説『ティファニーで朝食を』のヒロインは、カポーティがモンローをイメージして書いたものといわれる。しかしオードリー・ヘップバーンを主役に映画化された。
2004年には希少万年筆ブランドとして知られるクローネから、彼女をモチーフとした万年筆『マリリン・モンロー』が世界限定288本、税込808,000円で発売された。

2008年3月31日ロサンゼルス連邦地方裁判所は、マリリン・モンローの写真を使用したTシャツを製造販売した企業と、彼女の遺産管理団体の間で争われていた彼女の肖像権についての裁判で、マリリン・モンローはカリフォルニア州民ではなくニューヨーク州民であり、同州の法律によって1962年の死亡と同時に彼女の肖像権は消滅したと判決を下した。彼女はニューヨーク市内にアパートを所有しており、そこを永住先としていたのが判決の理由となった。なお彼女の出生地であるカリフォルニア州の法律では肖像権は本人の死後100年は残る。
モンローの埋葬室の真上の区画が2009年8月24日にオークションにかけられ、一旦は4,600万2,100ドル(約4億3000万円)で落札されたが、落札者(日本人)がすぐに辞退を申し出たため、新たにインターネットオークションにかけられたが、入札者なしで、現在も買い手は見つかっていない。

現在モンローの「上にいる」のは、23年前に81歳で亡くなった実業家リチャード・ポンチャー(Richard Poncher)だが、夫人のエルシー・ポンチャー(Elsie Poncher)が夫を別の区画に移すためオークションに出した。理由は、ビバリーヒルズにある160万ドル(約1億5000万円)相当の自宅のローンを完済したいからだという。この墓は、実業家として成功していたリチャードが、モンローの夫だったジョー・ディマジオから1954年に買い取ったもので、リチャードはもうひとつ上の区画も購入してあったため、エルシーはそこに夫を移すという。

成人向け娯楽雑誌『PLAYBOY』の創始者ヒュー・ヘフナーは「モンローのそばで永眠したい」と1992年に7万5,000ドル(約710万円)でモンローの左真横の区画を購入している。その上の区画もまだ空いており、25万ドル(約2,400万円)で販売中だという。

モンローの胸部を含むエックス線写真3枚が、2010年6月27日、ラスベガスのホテル「プラネット・ハリウッド・リゾート・アンド・カジノ」でオークションにかけられ、胸部エックス線写真は2万5,000ドル、横から写したものなど2枚はそれぞれ1万ドルで落札された。

写真はモンローが1954年11月に、フロリダ州のシーダーズ・オブ・レバノン病院で診察を受けた際に撮影されたもので、担当した医師の夫人が保管していたもの。モンローは当時、子宮内膜症に苦しんでおり、この治療のために通っていた。子宮の状態を検査するため、胸部や骨盤を撮影した際のもの。またこの時期は、夫のジョー・ディマジオと離婚して2週間後の時期でもあった。

映画「七年目の浮気」で着用した白いホルターネックのドレスが、2011年6月18日オークションにかけられ、460万ドル(約3億7000万円)で落札された。他に「紳士は金髪がお好き」の真っ赤なスパンコールのドレスが120万ドル(約9600万円)、「帰らざる河」の酒場の衣装が51万ドル(約4000万円)で落札された。

モンロー・ウォーク
マリリン・モンローはお尻を通常よりも大きく左右に振ってセクシーに見える歩き方をすることで有名で、これを指して「モンロー・ウォーク」と呼ぶ。この独特な歩き方の秘密は、彼女が意図的に左右のヒールの長さを変えていることにあると言われている。おおよそ、左のヒールよりも右のヒールを4分の1インチ(6mm強)程度短くしているとされる。このことは、彼女の友人である女優が証言している。

モンロースマイル

親の愛情に恵まれていない子供ほど、周囲の大人に気に入られようとして魅力的な笑顔を振りまく傾向があることを示す心理学用語。マリリン・モンローは、チャーミングな笑顔で多くの人々を魅了したが、その笑顔は不遇な子供時代に周囲の大人たちの歓心を買うため自然と身に付いたものだと言われている。オーディションなどで笑顔の印象的な子役を選んでみると、両親の離婚など家庭に複雑な事情を抱えている子供が多いことから、モンローにちなんで名づけられた。

出演作品
1947年:『嵐の園』でスクリーンデビュー。カヌーを漕ぐシーンはカットされる。主役に、ハローと声をかけるシーンだけ残った。
『Dangerous Years』公開はこちらが先。実質的なデビュー作 1948年:『Ladies of the Chorus』
1949年:『Love Happy』
1950年:『彼女は二挺拳銃(A Ticket to Tomahawk)』
1950年:『アスファルト・ジャングル(The Asphalt Jungle)』
1950年:『イヴの総て{All About Eve}』 - キネマ旬報ベスト・テン 第1位
1951年:『ふるさと物語(Home Town Story)』『Love Nest』
1952年:『ノックは無用(Don't Bother to Knock)』
1952年:『モンキー・ビジネス(Monkey Business)』
1952年: 『人生模様 (O. Henry's Full House)』
1953年:『ナイアガラ(Niagara)』
1953年:『紳士は金髪がお好き(Gentlemen Prefer Blondes)』
1953年:『百万長者と結婚する方法(How to Marry a Millionaire)』
1954年:『帰らざる河(River of No Return)』
1954年:『ショウほど素敵な商売はない(There's No Business Like Show Business)』
1955年:『七年目の浮気(The Seven Year Itch)』
1956年:『バス停留所(Bus Stop)』
1957年:『王子と踊子(The Prince and the Showgirl)』
1959年:『お熱いのがお好き(Some Like It Hot)』 - ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門)受賞
1960年:『恋をしましょう(Let's Make Love)』
1961年:『荒馬と女(The Misfits)』

歌手として
映画の中で歌う 『Ladies of the Chorus』より Every Baby Needs a Da-Da-Daddy(ベビーにはパパが必要)
Anyone Can See I Love You(私の恋はどなたにもお見通し)

『ナイアガラ』より Kiss(キス)

『紳士は金髪がお好き』より Diamonds Are a Girl's Best Friend(ダイヤは女の最良の友)
Two Little Girls from Little Rock(リトルロックから来た娘)
When Love Goes Wrong(恋にしくじったら)
Bye Bye Baby(バイ・バイ・ベイビー)

『帰らざる河』より The River of No Return(帰らざる河)
I'm Gonna File My Claim(請求書にためとくわ ※素訳 登記しとくわ)
One Silver Dollar(一枚の銀貨)
Down in the Meadow(牧場で)

『ショウほど素敵な商売はない』より After You Get What You Want, You Don't Want It(気ままなあなた)
Heat Wave(ヒート・ウェーブ)

Lazy(もの憂さ)
A Man Chases a Girl(男は女を追いかける)

『バス停留所』より That Old Black Magic(恋という魔術)

『お熱いのがお好き』より I'm Through with Love(恋はおしまい)
I Wanna Be Loved by You(あなたに愛されたいの)
Running Wild(ランニング・ワイルド)

『恋をしましょう』より Let's Make Love(恋をしましょう)
Incurably Romantic(とってもロマンティック)
Specialization(スペシャリゼイション)
My Heart Belongs to Daddy(私の心はパパのもの)

その他の歌(映画以外で歌う) Do It Again(ドゥ・イット・アゲイン)
A Fine Romance(ファイン・ロマンス)
You'd be Surprised(驚かないでね)
She Acts Like a Woman Should(女のお手本)
Some Like It Hot(お熱いのがお好き) 映画の中ではインストルメント・バージョンが使われていて歌はない。これは同映画公開時にPR用に歌ったもの。
Happy Birthday,Mr.President 1962年5月19日、マディソン・スクエア・ガーデンで行われたジョン・F・ケネディ大統領誕生パーティで歌ったもの

関連作品
映画『マリリンとアインシュタイン』(INSIGNIFICANCE、1985、米):監督 ニコラス・ローグ、出演:テレサ・ラッセル、ゲイリー・ビューシイ、トニー・カーティス
映画『ノーマ・ジーンとマリリン』(Norma Jean and Marilyn、1996、米):監督 ティム・フェイウェル、出演:アシュレー・ジャド、ミラ・ソルヴィノ、ジョシュ・チャールズ、ピーター・ドブソン
映画『マリリン 七日間の恋』(My Week with Marilyn、 2011、米)監督 サイモン・カーチス 、出演:ミシェル・ウィリアムズ 、ケネス・ブラナー

ノンフィクション『マリリン・モンローの真実』(アンソニー・サマーズ)

参考文献
亀井俊介 『マリリン・モンロー』 岩波新書、初版1987年7月。ISBN 4004203813
亀井俊介 『アメリカでいちばん美しい人―マリリン・モンローの文化史』 岩波書店、2004年12月。ISBN 400022025X
亀井俊介編  『「セックス・シンボル」から「女神」へ―マリリン・モンローの世界』 昭和堂、2010年1月。ISBN 4812209560、写真多数
アンソニー・サマーズ 『マリリン・モンローの真実 (上下)』 中田耕治訳、扶桑社<扶桑社ミステリー>、1988年7月
『中田耕治コレクション1.マリリン・モンロー論考』、青弓社、1991年
ドナルド・スポト 『マリリン・モンロー最後の真実』 小沢瑞穂・真崎義博訳、光文社 1993年10月。ISBN 4334960707&ISBN 4334960715

関連項目
ブリジット・バルドー
ソフィア・ローレン
セックス・シンボル ‐ 上記2人は同時期の代表
シャネルNo.5
アンディー・ウォーホル
ヒュー・ヘフナー
向井真理子 - マリリン・モンローの専属声優
モンロー (小惑星)

マリリン・モンローの再来といわれている人物

セクシーなブロンド美女が現れるとその人物を「マリリン・モンローの再来」ということがある
マドンナ(口元のホクロの位置が同じだったためによく言われていた)[22]
アンナ・ニコル・スミス(マリリン・モンローの人生そのものに憧れて「マリリン・モンローの様な死に方をしたい」と発言しており、実際に謎の多い最期を迎えている)
スカーレット・ヨハンソン
エヴァ・ハーツィゴヴァ(『1990年代のマリリン・モンロー』と称された)
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2012年06月08日

女優のニコール・キッドマン(Nicole Kidman)は、「ランバン(LANVIN)」のドレスに「カルティエ(Cartier)」のイヤリングとブレスレットをコーディネート 第65回カンヌ国際映画祭のファッション



 南仏カンヌで5月27日まで、 第65回カンヌ国際映画祭(Cannes Film Festival)が開催された。会場のレッドカーペットには、女優やモデルが豪華なジュエリーを身につけて登場し、話題となった。

■カルティエ


 女優のニコール・キッドマン(Nicole Kidman)は、「ランバン(LANVIN)」のドレスに「カルティエ(Cartier)」のイヤリングとブレスレットをコーディネート。モナコのシャルロット・カシラギ(Charlotte Casiraghi)公女は、イエローゴールドのイヤリングをトリニティ・ブレスレットにあわせた。

■ブルガリ

 女優ナスターシャ・キンスキー(Nastassja Kinski)はダイヤあしらった「ブルガリ(BVLGARI)」のヴィンテージ・ネックレスを、女優のヴァージニー・エフィラ(Virginie Efira)はセルペンティ ブレスレットとイエロー・ゴールドのリングを着用。キム・ヒョジン(Hyo-Jin Kim)は、ホワイトダイヤのブレスレットとリングを選んだ。

■ショパール

 米国エイズ研究財団amfAR(American Foundation for AIDS Research)主催のチャリティ・ガライベントに出席した歌手カイリー・ミノーグ(Kylie Minogue)は、真紅のドレスに映えるダイヤモンドの3連ネックレスを着用。モデルのアンニャ・ルービック (Anja Rubik)は、カラーコントラストが美しいネックレスとブレスレットを身につけた。

■シャネル ファイン ジュエリー、ダミアーニ

 女優のダイアン・クルーガー(Diane Kruger)や監督/女優のマイウェン・ル・ベスコ(Maiwenn Le Besco)は、「シャネル(Chanel)」のファイン ジュエリーをコーディネート。

 エヴァ・ロンゴリア(Eva Longoria)は、「ダミアーニ(Damiani)」のイヤリングをホワイトドレスにあわせた
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2012年06月02日

モンローは永遠に生き続ける!米女優、故マリリン・モンローの生誕86年に合わせ、ニューヨークのマダム・タッソーろう人形館で5月31日、カップケーキ2100個を用いたモンローの似顔絵が公開された



米女優、故マリリン・モンロー(Marilyn Monroe)の生誕86年に合わせ、ニューヨーク(New York)のマダム・タッソー(Madame Tussauds)ろう人形館で5月31日、カップケーキ2100個を用いたモンローの似顔絵が公開された。米映画『7年目の浮気(The Seven Year Itch)』(1955)でモンローが地下鉄の通気口の上に立つ有名な1シーンが描かれている





★マリリン・モンローMarilyn Monroe

■生年月日 : 1926/06/01

■出身地 : アメリカ/カリフォルニア州ロサンジェルス

■没年 : 1962/08/05

■もう2度と彼女のような女優は誕生しないであろう。本名はNorma Jean Baker。私生児として生まれ、母親が精神病院への入退院を繰り返していた為、里親や孤児院を転々とする暗い子供時代を過ごす。

16歳の時に工員(ジェイムズ・ドアティ)と結婚するが離婚後、男性雑誌のモデルなどをして生計を立て、46年にFOXと契約を結んで47年に“Dangerous Years”の端役で映画デビュー。

売れない時期が続いたが、52年、「ノックは無用」で初主演して注目をされるようになり、以後、「ナイアガラ」、「紳士は金髪が好き」などで人気を不動の物とする。故ケネディ大統領などとのスキャンダルもあるが、結婚は3回で、工員と、野球選手のジョー・ディマジオ、劇作家のアーサー・ミラーだが、その全てが離婚に終わっている。

そしてディマジオとよりを戻しつつあった62年8月4日、ロサンジェルスの自宅で、睡眠薬の多量摂取により死亡しているのが発見される。

享年36歳。その後、自殺説などの噂が流れるが原因はいまだ不明。撮影中だった作品は製作中止となった。“セックス・シンボル”の代名詞とも言われ、世の男性陣を魅了し続けた彼女も内面的にはかなり複雑なものがあり、その経緯を題材にした「ノーマ・ジーンとマリリン」が後に製作されている。

★マリリン・モンロー(Marilyn Monroe、1926年6月1日 - 1962年8月5日)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス出身の女優。旧名、ノーマ・ジーン・モーテンセン(Norma Jeane Mortensen)。本名、ノーマ・ジーン・ベイカー(Norma Jeane Baker)。


Marilyn Monroe  マリリン・モンロー


本名

ノーマ・ジーン・モーテンセン
Norma Jeane Mortensen
ノーマ・ジーン・ベイカー
Norma Jeane Baker



生年月日

1926年6月1日



没年月日

1962年8月5日(満36歳没)



出生地

カリフォルニア州ロサンゼルス



死没地

カリフォルニア州ロサンゼルスブレントウッド



国籍

アメリカ合衆国



職業

女優



ジャンル

映画



活動期間

1947年 - 1962年



配偶者

ジム・ドハティ
ジョー・ディマジオ
アーサー・ミラー



主な作品



映画
紳士は金髪がお好きGentleman Prefer Blondes
七年目の浮気The Seven Year Itch
バス停留所Bus Stop
お熱いのがお好きSome Like it Hot
荒馬と女The Misfits

受賞
ゴールデングローブ賞
主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)
☆1959 『お熱いのがお好き』Some Like It Hot



概要

1950年代中盤から現在に至るまで「アメリカのセックスシンボル」と称される。モンローというステージネームは彼女の母親の姓である。

身長166.4cm、体重53.5kg。スリーサイズはB94 W61 H86。トレードマークは、真っ赤に塗られた唇、口元のホクロ、モンロー・ウォークと呼ばれた独特な歩き方。フェラガモに作らせた靴のサイズは、24.5cm。ノルウェー人の血を引いているといわれるが、本当の髪の色はブロンドではなく褐色(ブルネット)であった。

経歴

生い立ち

ノーマは片親家庭に生まれた。アメリカ合衆国には戸籍がないので、出産直後に医者が書く出生証明書が法的な意味をもつことになっている。彼女の出生証明書には、父:エドワード・モーテンセン、母:グラディス・モンロー・ベイカー、氏名:ノーマ・ジーン・モーテンセンと記載されていて、彼女の本名がノーマ・ジーン・モーテンセンであることに異論はないが、母と同じアパートに住んでいたスタンリー・ギフォードという男性が本当の父親であるという説もある[1]。 後年大人になったノーマがギフォードに電話したことがあるが、会うことは拒否されている。モンローは正式な書類にサインするときはモーテンセンの姓を使ったが、そうでないときは母親の姓を使ってノーマ・ジーン・ベイカーと名乗ることが多かった。

ノーマという本名の由来は、映画好きな母グラディスが当時好きだった女優ノーマ・タルマッジからとったとされる。ジーンは1930年代のセックス・シンボル、ジーン・ハーロウに由来する。母グラディス・ベイカー(旧姓モンロー)は「モンロー宣言」で知られるジェームズ・モンロー大統領が先祖であると周囲にもらしていたが、娘のモンロー自身は一笑に付したとされる。

日本語訳されている評伝のなかには、モンローは孤児だったと記されているが、母親がいたのだから日本語では孤児と呼ぶことは出来ない。これは彼女が孤児院(orphanage)や養子として育てられたために受けた誤解である。またモンローには父親違いの7つ年上の姉が居る。姉とは女優になってからも気にかけていて、手紙をやりとりし互いに訪ね合うほど親交があった。その姉はモンローの葬儀に参列している。ジョー・ディマジオと共に葬儀の準備にあたり、マリリンの死装束を選んだのも他ならぬこの姉であった。

モンローの母親は大手映画製作会社のRKOでフィルムカッターの仕事をしていたが、精神病を患っていて職場の同僚グレース・マッキー(後に結婚してGoddard「ゴダード」)が彼女の保護者になった。マッキーが1935年に結婚した後、モンローはロサンゼルスの孤児院へ、その後伝えられるところでは性的虐待及びネグレクトで支配された養家へ連続して送られ、そのせいか吃音症を患うようになってしまった。当時の大統領の政策で、里親には支給された援助金目当てで子供を引き取る家もあったとされ、モンローもいくつもの家をたらい回しにされるなど大事に扱われたとは言えなかった。

最初の結婚

第二次世界大戦下の1942年、16歳のときに半年で高校を中退しグレース・ゴダードの叔母で母の友人アナ・ロウアーのすすめで、母の家の近所に住むジム・ドハティと最初の結婚をする。ジムはロッキード航空機製造会社に整備工として勤務していたが、その後海軍に徴兵され輸送船団に乗り組むことになった。独りになったノーマは航空機部品工場レイディオ・プレーン社に就職し、自活の道を歩き始めた。

ハリウッドへ

第二次世界大戦末期の1945年の19歳の誕生日を迎えて間もなくのこと、工場で働いていた時に陸軍から取材に派遣された報道部員デビッド・コノバー一等兵に見出され、写真を撮られる。この写真が陸軍の機関誌『ヤンク』に掲載されたことを機にハリウッドへの道をたどることになる。コノバーにそのネガを見せられた商業写真家のポッター・ヒューズにカバーガールになることをすすめられ、モンローは工場を辞めてハリウッドのモデルクラブ「ブルーブックス・モデルズ・エージェンシー」の専属モデルに応募した。モデルの基礎教程を終えたノーマの初仕事は、ロサンゼルス博覧会場でのイベントコンパニオンであった。

やがて新進の写真家アンドレ・ド・ディーンズと知り合い、モデルとしての才能を発見される。この年、二人で長い撮影旅行に出かけている。ド・ディーンズはマリリンがモンローになる前のノーマ・ジーンの初々しい姿をカメラに収めた。その後、髪をゴールデン・ブロンドに染めたセクシーなピンナップが売りものの雑誌に写真が掲載されるようになる。

女優になる

1946年、20世紀フォックスのスクリーン・テストに合格し「マリリン・モンロー」という芸名で契約を結んだ。マリリンの名は1920年代のブロードウェイの美貌の舞台女優マリリン・ミラーに由来している。なお夫のジムはモデル業に理解を示さず結婚から4年で離婚した。

1947年に20世紀フォックスの『嵐の園』という映画に端役で初出演するが、あまりぱっとせずに契約を切られてしまったが、彼女は女優への夢を諦めきれずコロムビア映画に移籍、『コーラスのレディたち』で準主役となる。コロムビア映画とはその映画一本のみで終わってしまったために、その後は再びヌードモデルなどをしながら演技の勉強をし、エージェント(交渉代理業者)を探し続けた。

生活が苦しく家賃や車の月賦が払えなかったためにカレンダーのヌードモデルになった(写真家トム・ケリー撮影の「ゴールデン・ドリーム」と呼ばれる作品で有名)。しかしこのことが後にスキャンダルを巻き起こすことになる。

トップスターになる
1951年にエージェントのジョニー・ハイドの尽力で『アスファルト・ジャングル』、『イヴの総て』に出演、注目される。以後、数本の映画に脇役で出、1952年の『ノックは無用』で準主役。1953年『ナイアガラ』では不倫相手と夫の殺害を計画する悪女を主演し、腰を振って歩く仕草(モンロー・ウォーク)で世の男性の注目を集める。続く『紳士は金髪がお好き』、『百万長者と結婚する方法』や『七年目の浮気』が大ヒットして一躍トップスターとなった。

1954年1月14日、野球選手のジョー・ディマジオとサンフランシスコ市庁舎で結婚。2月1日、読売ジャイアンツの招きもあり、新婚旅行を兼ねてパンアメリカン航空のボーイング377で日本を訪れ、東京国際空港で大歓迎を受けた。

野球の仕事を兼ねていたディマジオは、滞在中忙しく外へ出かけることが多かった。野球に興味のなかったモンローは宿泊先の帝国ホテルで待つ日々が続いた。そんな折、朝鮮戦争で駐留していた在韓米軍を慰問してほしいという依頼が舞い込む。暇を持て余していたモンローに断る理由はなかった。行くなと反対するディマジオと喧嘩するようにして韓国へ向かった。モンローはヘリコプターに乗り、ジープや戦車を乗り継いで駐屯地を回り、多くの兵士たちを前にして歌った。

1955年に、関係が悪化していたディマジオと離婚した。結婚生活は9か月しか続かなかった。その後、セックスシンボルを脱したかった彼女は、ニューヨークに移りリー・ストラスバーグが主催するアクターズ・スタジオで演技の指導を受けている。『アンナ・クリスティ』、『欲望という名の電車』を演じ好評を博したことは彼女に自信を取り戻させた。

1956年には劇作家のアーサー・ミラーと結婚するが、1957年頃から不安定な状態が続き、睡眠薬を飲み過ぎたりして、精神病院に入ったりもした。UCLA教授のラルフ・グリーンソンによる精神分析を受け続けた。また、アンナ・フロイト(ジークムント・フロイトの娘)には境界性パーソナリティ障害と診断されたが、正確なところは分からない。この頃流産を経験した。

ケネディ兄弟との情事

1961年にミラーと離婚。この前後から、ケネディの妹の夫のピーター・ローフォードやフランク・シナトラの紹介で前年に大統領となったジョン・F・ケネディと不倫の関係にあったことが、ローフォードやモンローの家の家政婦のレナ・ペピートーンなどにより証言されている。 また、ジョンの弟で司法長官を務めていたロバート・ケネディとも関係があったとも囁かれたことがある。

同年に封切られた映画『荒馬と女』の評判が悪く、また共演したクラーク・ゲイブルが撮影終了後に急死したことも重なり、不安定になり再び精神病院に入院。この時、よりを戻した元夫ディマジオが彼女を支えた。翌1962年に、映画『女房は生きていた』の主演になるが、たびたび撮影をすっぽかすため制作はほとんど進まなかった。『女房は生きていた』の主役は結局降ろされた(のちにドリス・デイ主演で公開)。

なおジョン・F・ケネディとモンローとの関係は、ケネディがサム・ジアンカーナらマフィアと関係の深いシナトラを介してモンローと知り合った上に、ジアンカーナが2人の関係を知っており、このことをマフィアの取り締まりを強化しようとしていたケネディ政権に対する取引に使おうとしていたことを憂慮したFBIのジョン・エドガー・フーヴァー長官が、ロバートに忠告したことでこの年に終焉を迎えた。

しかしながらモンローは、その関係が終焉を迎えた直後の1962年5月19日に、ニューヨーク市のマディソン・スクエア・ガーデンで行われたケネディの45歳の誕生日パーティ(司会はローフォード)に、体の線が露わになったドレス姿で赴き、『ハッピーバースデートゥーユー』を歌い、「いつ引退しても悔いはない」とケネディに言わしめた(ハッピーバースデー・ミスタープレジデントも参照。なお、ケネディは翌年凶弾に倒れている)。なお、この際にケネディとモンローの関係を快く思っていなかったジャクリーン夫人は、パーティーにモンローが来ると知ってあえて欠席した。

死と波紋






1962年8月5日、自宅の寝室で全裸で死んでいるのが発見された。没年36歳。死の直後、マスコミでは「死因は睡眠薬の大量服用による急性バルビツール中毒で、自殺の模様」と大々的に報道され、世界に多大な衝撃・悲嘆が駆け巡った。

ただのドラッグ・オーバードースであるとの声もある上、「『女房は生きていた』の主役を降ろされたことを悲観して」との根拠に欠ける仮説も唱えられたが、2000年代に入りFOXニュースが20世紀フォックスの倉庫から発見した資料によると、FOX首脳部との会談で、モンローとそりの合わなかった監督を降板させ、モンローを復帰させる契約が交わされていたことが分かった。さらに、「何という行き方!」というミュージカル大作への出演も決まっており、「モンローが配給会社から見捨てられ、失意の中で死んでいった」という仮説は成立しなくなることが分かった。

1980年前後以降は自殺説は影を潜め、何者かによる謀殺説が根強く叫ばれ続けている(謀殺説はモンローの死後間もない時期から存在していた)。現場からは自殺に使うはずのコップは発見されておらず、また彼女が遺体で発見されたとき、手には受話器が握られていたものの、FBIが押収したモンローが死亡した前日と死亡した夜の電話の通話記録[7]には電話局からは同時刻の通話記録はなく、部屋からは彼女の日記(赤い手帳)が消えていた。そのため電話の通話記録の改ざん・隠蔽を行うことができる政治力の持ち主がモンローの死に関わっていたとする主張がある[8](「急性バルビツール中毒による体の不調を受けて救急車を自ら呼ぶために受話器を取ったものの、ダイヤルする前にこと切れた」という説もあるなお、ケネディ大統領と1950年代より不倫関係にあったことが、上記のように死後複数の証言から暴露された[9]上、お互いを紹介したのが、ケネディの大統領選挙の際の支援者でマフィアの大ボスのサム・ジアンカーナと関係の深いシナトラであったことが、この謀殺説を後押ししている。また、ケネディ大統領の弟であり当時の司法長官だったロバートとも不倫関係にあったこともあきらかになっており、これらの不倫の事実が死後に公にならないように、モンローが常に会話の内容をメモしていた赤い手帳が表に出るのを避けたという話もある。

葬儀
モンローの墓
モンローを司法解剖した監察医は、トーマス野口こと野口恒富である。葬儀は元夫ジョー・ディマジオが取り仕切った。映画界からの参列はすべて固辞された。

その墓所は故郷ロサンゼルスのウエストウッド・メモリアルパークにある。彼女の死後、ディマジオの計らいで、定期的に赤いバラ(品種:アメリカン・ビューティー)が供えられていた。ディマジオの亡き後は、ファンクラブなどのボランティアの手で続けられている。

受賞歴

ゴールデングローブ賞
受賞 1954年 ヘンリエッタ賞: 1960年 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門):『お熱いのがお好き』 1962年 ヘンリエッタ賞: ノミネート 1957年 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門):『バス停留所』



エピソード

記者に「夜は何を着て寝るのか?」との質問に「シャネルの5番よ」と答えたエピソードはあまりにも有名である。

最初の夫ジム・ドハティが、ロッキード航空の製造会社で整備工をしていたとき、同僚に、後に俳優になったロバート・ミッチャムがいた[10]。ミッチャムは映画「帰らざる河」でモンローと共演。ドハティがノーマ・ジーンの作った愛妻弁当を職場に持ってきたことがある、とミッチャムは2人の新婚当時の様子を証言している。

陸軍報道部員デビッド・コノバーを取材に派遣した当時の上司は、ロナルド・レーガンであった。後年モンローは、ディナーの席でたまたま隣に座った俳優レーガンと言葉を交わしている。
モンローのデビューにあたり20世紀フォックスは、モンローのプロフィールで年齢を2歳サバを読んで発表していた。そのため映画解説者の淀川長治も、「彼女は34歳で亡くなりました」と、日曜洋画劇場の解説で言ったことがある。

グローマンズ・チャイニーズ・シアターの前庭に、「紳士は金髪がお好き」で共演したジェーン・ラッセルと共に、手型・靴型・サインを残したのは、1953年6月26日のことであった。ジェーンがうつぶせになって胸を、モンローが座ってお尻の跡をつけようとのモンローの提案は受け入れられなかった。サインのMarilynのiの点にダイヤモンドを使ったらどうかとの提案には、結局模造ダイヤを使うことになったが、観光客が削っていってしまった。

1954年2月1日、新婚旅行で来日したモンローであったが体調をくずしてしまう。予定されていた記者会見も顔見せ程度でキャンセルされ(翌日に延期された)、早々と帝国ホテル2階244号室にひきこもった。長旅で疲労困憊、胃痙攣もおこしていた。医者が呼ばれ、痛み止めの注射をしようとしたがモンローはこれを拒否。それではと治療のために呼ばれたのが、「指圧の心は母心」で有名な浪越徳治郎であった[13]。浪越は全裸のモンローに指圧を施した。指圧のおかげで生気を取り戻したモンローは、ホテルの外で、顔を一目みるまでは帰らないぞと待っている群衆の期待にこたえ、バルコニーから手を振った。

モンローに戒名をつけた人がいる。1973年8月5日に東京都世田谷区の大吉寺本堂で、住職で作家の寺内大吉(当時はキックボクシングの解説でも知られた)が、モンロー13回忌の法要が営まれた。経をあげモンローに「鞠利院不滅美色悶浪大姉(まりりいんふめつびしょくもんろうだいし)」という戒名を捧げた。

モンローが眠る墓所ウエストウッド・メモリアルパークには、モンローと関係のあった人たちも眠っている。モンローの葬儀を取り仕切っていたジョー・ディマジオが、ノーマ・ジーンの育ての親であるグレース・ゴダードとアナ・ロウアーがこの墓地に埋葬されていることを知って、モンローの墓所にこの墓地を選んだといわれている。これを機にこれ以降多くの芸能人の墓所としてこの墓地が選ばれるようになった。

1985年9月23日ロサンゼルス市警は、当時の捜査資料を公表した。この中で、他殺説を裏付ける証拠はなく、ダリル・ゲイツ署長も記者会見で「明らかに自殺といえる」と述べた。この日、公表された捜査資料は全132ページ、厚さにして1cm強。モンローの関係捜査資料は死亡時から約10年間、非公開書類として保管された後、1973年に廃棄されたが、当時の捜査担当官故タッド・ブラウンが個人的にその写しを保管していた。今回の公表資料はそれをコピーしたものという。資料はトーマス・ノグチ・ロサンゼルス郡検視局検視官(当時)による解剖所見のほか、関係者の事情聴取記録やモンローの死亡前後の電話通話記録など。モンローの死については一時、他殺説が流れたことから、同市警も再捜査した。この再捜査記録も今回含まれているが、他殺説を証拠立てる資料は見当たらない、と結論づけた。

イギリスの大衆紙「ピープル」は、1990年7月2日の紙面で、モンローに隠し子がいたと報じた。同紙は1面に「マリリン・モンローに英国育ちの隠された子がいた!」と大見出し、中面の1ページ全体を使ってこの情報を伝えた。

同紙によれば、モンローの元恋人で米国人作家のテッド・ジョーダンが出版する著書『マリリン・モンローの秘められた生活』の中で記しているもので、モンローが1947年、21歳のときに生んだ子で、相手は当時交際のあったミュージシャンとのこと。子どもの名はナンシーといい、すぐ養女にだされ、養父が英国人だったため、イギリスのサウサンプトンに移され育てられた。虐待を受けたため17歳で家出。豪州に渡り、南太平洋の島々を転々とし、現在は豪州タスマニア島で、地道に宗教活動をしていて、苦心の末ナンシーに会ったというジョーダンによれば、唇と脚線美は母親そっくりだという。
(モンローは、「十代のときに子どもを産んだことがある」と親しかった友人ジーン・カーメンに打ち明けている[18]。
一方で、検死を行ったトーマス野口は、モンローが「出産した痕跡はない」と証言している[19])。
「生まれつき左足が6本指で、手術で治した」という俗説があるが、これは誤りである。

モンローと親交のあった作家トルーマン・カポーティの小説『ティファニーで朝食を』のヒロインは、カポーティがモンローをイメージして書いたものといわれる。しかしオードリー・ヘップバーンを主役に映画化された。
2004年には希少万年筆ブランドとして知られるクローネから、彼女をモチーフとした万年筆『マリリン・モンロー』が世界限定288本、税込808,000円で発売された。

2008年3月31日ロサンゼルス連邦地方裁判所は、マリリン・モンローの写真を使用したTシャツを製造販売した企業と、彼女の遺産管理団体の間で争われていた彼女の肖像権についての裁判で、マリリン・モンローはカリフォルニア州民ではなくニューヨーク州民であり、同州の法律によって1962年の死亡と同時に彼女の肖像権は消滅したと判決を下した。彼女はニューヨーク市内にアパートを所有しており、そこを永住先としていたのが判決の理由となった。なお彼女の出生地であるカリフォルニア州の法律では肖像権は本人の死後100年は残る。

モンローの埋葬室の真上の区画が2009年8月24日にオークションにかけられ、一旦は4,600万2,100ドル(約4億3000万円)で落札されたが、落札者(日本人)がすぐに辞退を申し出たため、新たにインターネットオークションにかけられたが、入札者なしで、現在も買い手は見つかっていない。

現在モンローの「上にいる」のは、23年前に81歳で亡くなった実業家リチャード・ポンチャー(Richard Poncher)だが、夫人のエルシー・ポンチャー(Elsie Poncher)が夫を別の区画に移すためオークションに出した。理由は、ビバリーヒルズにある160万ドル(約1億5000万円)相当の自宅のローンを完済したいからだという。この墓は、実業家として成功していたリチャードが、モンローの夫だったジョー・ディマジオから1954年に買い取ったもので、リチャードはもうひとつ上の区画も購入してあったため、エルシーはそこに夫を移すという。

成人向け娯楽雑誌『PLAYBOY』の創始者ヒュー・ヘフナーは「モンローのそばで永眠したい」と1992年に7万5,000ドル(約710万円)でモンローの左真横の区画を購入している。その上の区画もまだ空いており、25万ドル(約2,400万円)で販売中だという。
モンローの胸部を含むエックス線写真3枚が、2010年6月27日、ラスベガスのホテル「プラネット・ハリウッド・リゾート・アンド・カジノ」でオークションにかけられ、胸部エックス線写真は2万5,000ドル、横から写したものなど2枚はそれぞれ1万ドルで落札された。写真はモンローが1954年11月に、フロリダ州のシーダーズ・オブ・レバノン病院で診察を受けた際に撮影されたもので、担当した医師の夫人が保管していたもの。モンローは当時、子宮内膜症に苦しんでおり、この治療のために通っていた。子宮の状態を検査するため、胸部や骨盤を撮影した際のもの。またこの時期は、夫のジョー・ディマジオと離婚して2週間後の時期でもあった[21]。
映画「七年目の浮気」で着用した白いホルターネックのドレスが、2011年6月18日オークションにかけられ、460万ドル(約3億7000万円)で落札された。他に「紳士は金髪がお好き」の真っ赤なスパンコールのドレスが120万ドル(約9600万円)、「帰らざる河」の酒場の衣装が51万ドル(約4000万円)で落札された。

モンロー・ウォーク

マリリン・モンローはお尻を通常よりも大きく左右に振ってセクシーに見える歩き方をすることで有名で、これを指して「モンロー・ウォーク」と呼ぶ。この独特な歩き方の秘密は、彼女が意図的に左右のヒールの長さを変えていることにあると言われている。おおよそ、左のヒールよりも右のヒールを4分の1インチ(6mm強)程度短くしているとされる。このことは、彼女の友人である女優が証言している。

モンロースマイル
親の愛情に恵まれていない子供ほど、周囲の大人に気に入られようとして魅力的な笑顔を振りまく傾向があることを示す心理学用語。マリリン・モンローは、チャーミングな笑顔で多くの人々を魅了したが、その笑顔は不遇な子供時代に周囲の大人たちの歓心を買うため自然と身に付いたものだと言われている。オーディションなどで笑顔の印象的な子役を選んでみると、両親の離婚など家庭に複雑な事情を抱えている子供が多いことから、モンローにちなんで名づけられた。

出演作品
1947年:『嵐の園』でスクリーンデビュー。カヌーを漕ぐシーンはカットされる。主役に、ハローと声をかけるシーンだけ残った。
『Dangerous Years』公開はこちらが先。実質的なデビュー作 1948年:『Ladies of the Chorus』
1949年:『Love Happy』
1950年:『彼女は二挺拳銃(A Ticket to Tomahawk)』
1950年:『アスファルト・ジャングル(The Asphalt Jungle)』
1950年:『イヴの総て{All About Eve}』 - キネマ旬報ベスト・テン 第1位
1951年:『ふるさと物語(Home Town Story)』『Love Nest』
1952年:『ノックは無用(Don't Bother to Knock)』
1952年:『モンキー・ビジネス(Monkey Business)』
1952年: 『人生模様 (O. Henry's Full House)』
1953年:『ナイアガラ(Niagara)』
1953年:『紳士は金髪がお好き(Gentlemen Prefer Blondes)』
1953年:『百万長者と結婚する方法(How to Marry a Millionaire)』
1954年:『帰らざる河(River of No Return)』
1954年:『ショウほど素敵な商売はない(There's No Business Like Show Business)』
1955年:『七年目の浮気(The Seven Year Itch)』
1956年:『バス停留所(Bus Stop)』
1957年:『王子と踊子(The Prince and the Showgirl)』
1959年:『お熱いのがお好き(Some Like It Hot)』 - ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門)受賞
1960年:『恋をしましょう(Let's Make Love)』
1961年:『荒馬と女(The Misfits)』

歌手として
映画の中で歌う 『Ladies of the Chorus』より Every Baby Needs a Da-Da-Daddy(ベビーにはパパが必要)
Anyone Can See I Love You(私の恋はどなたにもお見通し)

『ナイアガラ』より Kiss(キス)

『紳士は金髪がお好き』より Diamonds Are a Girl's Best Friend(ダイヤは女の最良の友)
Two Little Girls from Little Rock(リトルロックから来た娘)
When Love Goes Wrong(恋にしくじったら)
Bye Bye Baby(バイ・バイ・ベイビー)

『帰らざる河』より The River of No Return(帰らざる河)
I'm Gonna File My Claim(請求書にためとくわ ※素訳 登記しとくわ)
One Silver Dollar(一枚の銀貨)
Down in the Meadow(牧場で)

『ショウほど素敵な商売はない』より After You Get What You Want, You Don't Want It(気ままなあなた)
Heat Wave(ヒート・ウェーブ)

Lazy(もの憂さ)
A Man Chases a Girl(男は女を追いかける)

『バス停留所』より That Old Black Magic(恋という魔術)

『お熱いのがお好き』より I'm Through with Love(恋はおしまい)
I Wanna Be Loved by You(あなたに愛されたいの)
Running Wild(ランニング・ワイルド)

『恋をしましょう』より Let's Make Love(恋をしましょう)
Incurably Romantic(とってもロマンティック)
Specialization(スペシャリゼイション)
My Heart Belongs to Daddy(私の心はパパのもの)

その他の歌(映画以外で歌う) Do It Again(ドゥ・イット・アゲイン)
A Fine Romance(ファイン・ロマンス)
You'd be Surprised(驚かないでね)
She Acts Like a Woman Should(女のお手本)
Some Like It Hot(お熱いのがお好き) 映画の中ではインストルメント・バージョンが使われていて歌はない。これは同映画公開時にPR用に歌ったもの。
Happy Birthday,Mr.President 1962年5月19日、マディソン・スクエア・ガーデンで行われたジョン・F・ケネディ大統領誕生パーティで歌ったもの

posted by kisebeauty at 17:57| Comment(0) | 女優 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月25日

女優のファン・ビンビン 、「クリストファー・ブー」のエキゾチックなフラワープリントドレスに、唐時代風のヘアスタイルで登場! 第65回カンヌ国際映画祭オープニングのレッドカーペット美しすぎる女優たち



第65回カンヌ国際映画祭(Cannes Film Festival)オープニングのレッドカーペットに登場した女優のファン・ビンビン(Fan Bingbing)

南仏カンヌで16日、第65回カンヌ国際映画祭(Cannes Film Festival)が開幕した。開会式のレッドカーペットには、女優のダイアン・クルーガー(Diane Kruger)やティルダ・スウィントン(Tilda Swinton)をはじめ大勢のセレブが華やかなドレスに身を包んで登場した。




■まさにレッドカーペットにぴったりなドレス  



 今年のカンヌ国際映画祭で審査委員を務めるダイアン・クルーガーはミントブルーが爽やかな「ジャンバティ スタ・ヴァリ(GiAMBATTiSTA VALLi)」のオートクチュールドレスをチョイス。エヴァ・ロ ンゴリア(Eva Longoria)は、フェミニンなフリルを全面にあしらった「マルケッサ(Marchesa)」のトレーンドレスを着こなして登場。映画『アーティスト(The Artist)』で一躍話題となり、今年度のオープニング式典の司会を務めた女優のベレニス・ベ ジョ (Berenice Bejo)は、「ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON)」の鮮やかなレッドドレスでゴージャスな雰囲気を演出した。



■スイートなピンクのドレスたち  

 ジェシカ・チャステイン(Jessica Chastain)は、淡いシュガーピンクの「アレキサンダー・マッ クイーン(Alexander McQueen)」で柔らかな印象にまとめた。ジェーン・フォンダ(Jane Fonda)は、ブロンズピンクの「アトリエ ヴェルサーチ(Atelier Versace)」のドレスで、70代には見えないボディ・ラインを披露。エヴァ・ハーツィゴヴァ (Eva Herzigova)は、「ドルチェ&ガッバーナ(Dolce & Gabbana)」のオフピンクのレースドレスで清楚に、フリーダ・ピント(Freida Pinto)は、「マイケル・エンジェル(Michael Angel)」の春らしいピンクのドレスでキュートな着こなし。

■“個性派”な着こなし

 ティルダ・スウィントンは「ハイダー・アッカーマン(Haider Ackermann)」のブロンズドレス、歌手のラナ・デル・レイ(Lana Del Rey)は「アルベルタ・フェレッティ(Alberta Ferretti)」のブラックドレスを着用。ファン・ビンビン(Fan Bingbing)は、「クリストファー・ブー(Christopher Bu)」のエキゾチックなフラワープリントドレスに、唐時代風のヘアスタイルで登場した




第65回カンヌ国際映画祭(Cannes Film Festival)が16日、南仏カンヌ(Cannes)で開幕し、ウェス・アンダーソン(Wes Anderson)監督作『ムーンライズ・キングダム(原題、Moonrise Kingdom)』がオープニング上映された。

 ブルース・ウィリス(Bruce Willis)、ティルダ・スウィントン(Tilda Swinton)、ビル・マーレイ(Bill Murray)、エドワード・ノートン(Edward Norton)らが出演する同作は、少年少女の逃避行を描いたファンタジーで、今映画祭ではコンペティション部門に出品されている。

 オープニング式典の司会は、『アーティスト(The Artist)』で注目されている女優ベレニス・ベジョ(Berenice Bejo)が務めた。

 最高賞パルム・ドール(Palme D'Or)を決めるコンペティション部門には22作品が出品されており、最終日の27日に授賞式が行われる。審査委員長はパルム・ドール受賞経験もあるイタリア人映画監督ナンニ・モレッティ(Nanni Moretti)が務める。

 写真は、オープニングのレッドカーペットに登場した米女優エヴァ・ロンゴリア(Eva Longoria
第65回カンヌ国際映画祭(Cannes Film Festival)が16日、南仏カンヌ(Cannes)で開幕し、ウェス・アンダーソン(Wes Anderson)監督作『ムーンライズ・キングダム(原題、Moonrise Kingdom)』がオープニング上映された。

 ブルース・ウィリス(Bruce Willis)、ティルダ・スウィントン(Tilda Swinton)、ビル・マーレイ(Bill Murray)、エドワード・ノートン(Edward Norton)らが出演する同作は、少年少女の逃避行を描いたファンタジーで、今映画祭ではコンペティション部門に出品されている。

 オープニング式典の司会は、『アーティスト(The Artist)』で注目されている女優ベレニス・ベジョ(Berenice Bejo)が務めた。

 最高賞パルム・ドール(Palme D'Or)を決めるコンペティション部門には22作品が出品されており、最終日の27日に授賞式が行われる。審査委員長はパルム・ドール受賞経験もあるイタリア人映画監督ナンニ・モレッティ(Nanni Moretti)が務める。


★ファン・ビンビン(Fan Bingbing)
范 冰冰(範氷々、ファン・ビンビン、Fan Bingbing、1981年9月16日 - )は、中国山東省青島市出身の女優。身長は168cm、体重52kg、血液型はB型。



人物・経歴

山東省青島市に生まれ、間もなく煙台市へ転居した。山東省育ちのため、山東話を話す事が出来る。TVのトーク番組で恥ずかしがりながら山東話を披露したことがある。

上海師範大学付属の謝晋影視芸術学院を経て上海戯劇学院を卒業。映画やテレビドラマへの出演などで女優として活動。テレビドラマ『還珠姫〜プリンセスのつくりかた〜』への出演をきっかけに一躍有名となった。以後数多くのテレビドラマに出演、近年では映画への出演も増えている。また、松下電器などCM出演も多い。

2005年にはアルバムを発売し、歌手活動も開始した。

日中合作映画『墨攻』に出演、2007年の日本公開時にはプロモーションで来日し、日本でも知名度が上昇した。同年、『心中有鬼』で金馬奨最優秀助演女優賞受賞。

また個人事務所である「氷氷影視伝媒有限公司(范氷氷工作室)」を設立。同時に演劇学校も設立し校長となるが、多忙のため彼女の両親が運営に当たっている。

2008年には、初製作ドラマ『胭脂雪』が放映され、続く『少女武則天』も放映された。また、ジャッキー・チェンの映画会社である「成龍英皇影業有限公司」など3社が共同出資したタレント事務所「博納英龍演芸経紀有限公司」との業務提携を発表した。

主な出演作品

映画
(一見鐘情、2001年)
(手足情、2001年)
(河東獅子吼、2002年)
(手機、2003年)
花都大戦 ツインズ・エフェクトII(千機変2、2004年)
西遊記リローデッド(情癲大聖、2005年)
導火線 FLASH POINT(導火線、2006年)秋堤役。
墨攻(墨攻、2006年)
(心中有鬼、2006年)
愛は迷走中〜Call For Love(愛情呼叫転移、映画祭邦題:コール・フォー・ラブ、2006年)2話目の「生の歓歌」寧燦役。
ロスト・イン・北京(苹果、2006年)
(寄生人、2007年)
(合約情人、2007年)
(精舞門、2007年) TINA役。
帰り道(回家的路、2008年)
新宿インシデント(新宿事件、2009年) 麗麗(リリー)役。
孫文の義士団(十月圍城、2009年)香港アカデミー賞の15部門でノミネート
ソフィーの復讐(非常完美、2009年)
カンフーヒップホップ2(精舞門2、2010年)
新少林寺/SHAOLIN(新少林寺、2010年)
(観音山、映画祭邦題:ブッダ・マウンテン、2010年)第23回東京国際映画祭最優秀優賞。
運命の子(趙氏孤児、2010年)
マイウェイ 12,000キロの真実(登陸之日、2010年)(韓国映画)
(建党偉業、映画祭邦題:赤い星の生まれ、2010年)
(一代宗師、撮影中)

テレビドラマ
(少年包青天II)
還珠姫〜プリンセスのつくりかた〜(金鎖)
始皇帝烈伝 ファーストエンペラー(秦始皇、2001年)
スピリット・オブ・ドラゴン 〜精武英雄 陳真〜(精武英雄、2002年)
(風雨歩高院)
(乱世飄萍)
(青春出動)
(馬永貞)
(還珠格格続集)
レジェンド・オブ・フラッシュ・ファイター 書剣恩仇録(書劍恩仇録、2001年)
(江山為重)
(給我一个媽)
(豪門驚夢)
(名捕震關東)
(特警飛龍)
ヒロイック・レジェンド(萍踪侠影、2004年)
PRIDE -プライド-(小魚児与花無缺、2004年)
八人の英雄(八大豪侠、2005年)
楊貴妃(大唐芙蓉園、2005年)
封神演義(封神榜、2006年)
(金大班的最後一夜)(2009年)

TVCM
サントリーウーロン茶 『ごはんの幸福・ラーメン篇』(2010年)
『ごはんの幸福・小籠包篇』(2010年)
『プレミアムクリア・「あ、香り」篇』(2010年)
『ホットホットガール篇』(2011年)
『ご近所ピクニック篇』(2011年)


歌手活動

2005年にアルバム『剛剛開始(Just Beginning)』を発売し、歌手デビューを果たした。
posted by kisebeauty at 22:22| Comment(0) | 女優 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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