2011年12月23日

作曲家ベートーベンが生み出した名曲は努力と才能と難聴の賜物?



ドイツの作曲家ベートーベン(Ludwig van Beethoven)が生み出した名曲の数々に、聴力の衰えが深く反映されているというオランダの研究チームによる論文が、20日の英医学誌「ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル(British Medical Journal、BMJ)」に掲載された。

 ベートーベンが楽器や人の話し声の高音が聞こえづらいと最初に訴えたのは1801年、30歳のときだった。1812年には、ほとんど叫ぶように話さないとベートーベンには聞き取れなくなり、1818年には筆談でのコミュニケーションを始めている。1827年に死去したが、晩年には聴力はほぼ完全に失われていたとみられる。

 ライデン(Leiden)にあるオランダ・メタボロミクスセンター(Netherlands Metabolomics Centr)のエドアルド・サセンティ(Edoardo Saccenti)氏ら3人の研究者は、ベートーベンの作曲活動を初期(1798〜1800年)から後期(1824〜26年)まで4つの年代に区切り、それぞれの時期に作曲された弦楽四重奏曲を分析した。

 研究チームが着目したのは、各曲の第1楽章で第1バイオリンのパートが奏でる「G6」より高い音の数だ。「G6」は、周波数では1568ヘルツに相当する。

 難聴の進行とともに、G6音よりも高音域の音符の使用は減っていた。そしてこれを補うかのように、中音域や低音域の音が増えていた。これらの音域は、実際に曲が演奏されたときにベートーベンが聞き取りやすかった音域帯だ。

 ところが、ベートーベンが完全に聴力を失った晩年に作られた曲では、高音域が復活している。これは、内耳(骨伝道)でしか音を聞けなくなったベートーベンが作曲の際、演奏された音に頼ることをやめ、かつての作曲経験や自身の内側にある音楽世界に回帰していったためだと、研究は推測している。

★ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンLudwig van Beethoven

基本情報
別名 楽聖
出生 1770年12月16日頃
出身地 神聖ローマ帝国、ボン
死没 1827年3月26日(満56歳没)
オーストリア帝国、ウィーン
ジャンル 古典派音楽
活動期間 1792 - 1827


ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い 発音例、1770年12月16日ごろ - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。クラシック音楽史上極めて偉大な作曲家の一人とされる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。



生涯
1770年12月16日、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンで父ヨハン、母マリア・マグダレーナの長男として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた祖父ルートヴィヒの支援により生計を立てていた。

ベートーヴェンの父も宮廷歌手(テノール)であったが無類の酒好きであったため収入は少なく、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言える苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。

1787年、16歳のベートーヴェンはウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトに弟子入りを申し入れ、モーツァルトにその才能を認められ弟子入りを許されたが、最愛の母マリアの病状悪化の報を受けボンに戻った。母はまもなく死亡し(肺結核)、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。

1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンに才能を認められ弟子入りを許可され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノの即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として名声を博した。

20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり)が徐々に悪化、26歳の頃には中途失聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』を記し自殺も考えたが、強靭な精神力をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意思を得て新しい芸術の道へと進んでいくことになる。

1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。

40代に入ると、難聴が次第に悪化し、晩年の約10年はほぼ聞こえない状態にまで陥った。また神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥カールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で作られた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。

1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も発症するなど病状が急激に悪化、病床に臥す。10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変により56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が駆けつけるという異例のものとなった。

ベートーヴェンの修行時代一覧

(セイヤー『ベートヴェンの生涯』より。)

(ボン時代)侯付き老オルガン奏者ヴァン・エーデン 諸記録は現存せず。シュロッサーの証言による。ベートーヴェン8歳、時にエーデン70歳。 ピアノフォルテを教授したとされる。 後任のネーフェが1781年にオルガニストとして着任、その翌年の1782年6月にエーデンは他界している。ベートーヴェンの祖父の仕事仲間であった古参のオルガニストであった。

(ボン時代)侯付きフランツ・ゲオルグ・ロヴァンテーニ 教師としては尊敬を集め、教えを請う者も少なくなかった。 ベートーヴェンはヴァイオリンとビオラを教授されたとする。 しかし、1781年9月9日に僅か24歳で死去。教授期間も不明である。 ベートーヴェンへのロヴァンテーニ教授期間も短期間であったらしい。

(ボン時代)ヴィリバルト・コッホ 修道士。オルガンの演奏技術、機械構造の専門的知識により敬意を寄せられていた。 若いベートーヴェンがコッホを訪ね求めて教えを乞うた結果、ヴィリバルト修道士が 後にベートーヴェンを助手や代理に使うほどの進歩を見せたことは、ベートーヴェンがオルガンの演奏技術を身につけたのは、この修道士による教授の功績と考えてよい。 この頃のベートーヴェンがオルガンに興味を示したのは、仕事の範囲を増やす目的であったらしい。

(ボン時代)クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ。 ベートーヴェンの先生としては、どの伝記作家も取り上げるネーフェ。 先に上述の候付き老オルガン奏者ヴァン・エーデンの後任として1781年に就任。 ベートーヴェンに何を教授したか、その期間も定かではないが、ネーフェ自身、一貫して系統立てて作曲の理論を学んでいたわけではないから、断片的にネーフェが知りうる程度の教授であったろうことは想像に難しくはない。

しかし、このクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェは、最初にベートーヴェンの才能を認めたヴァルトシュタイン伯爵とともに、ベートーヴェンの音楽的才能を最初に評価した人である光栄に浴する権利は十分にある。ベートーヴェンの「ウィーン行き」(ハイドンの元へベートーヴェンを弟子入りさせる計画)は、ネーフェとヴァルトシュタイン伯爵が実現させた立役者である。

ベートーヴェンもネーフェの好意に感謝をして「私の天与の芸術が向上するにつき、先生が再三ならず与えられた助言に感謝をしております」というベートーヴェンらしい強気な自信と感謝の念を残している。

(ウィーン時代)モーツァルト。この話は有名であるが、1回だけの訪問であったのか、ある程度複数回指導を受けたのかは全く記録が残されていない。またベートーヴェン自身も多くをこの問題では語っておらず、モーツァルト、またはその友人関係者の証言も後年になっても残されておらず、実情は一回だけの訪問で、短時間かつ冷淡であったと伝えられる。

弟子には取られなかったのが、この後のベートーヴェンの行動から読み取れる。モーツァルトの弟子は、フランツ・クサバー・ジュスマイヤーで、モーツァルトが「天才」を評価して採用したが、結局は現在では数曲を残して世の中に埋もれてしまった。

ベートーヴェン弟子入りは後にも先にもこの話だけであるので、弟子入りを認められた可能性は非常に少ない。ベートーヴェンがウィーンに出てきた目的は、ボン選帝侯からのハイドンの弟子になる目的で拘束されており、表敬訪問であったと考えるのが妥当である。また、よく語られるこの時のエピソードもモーツァルト研究者オットー・ヤーンから出てきた話である。 実際にはモーツァルトの父親が重病の知らせを受けていた時期でもあり、冷淡な反応しか得られなかった可能性が高い。


(ウィーン時代)フランツ・ヨーゼフ・ハイドン。正確な記録が残されておらず、ベートーヴェンがハイドンからどれだけの期間学んだのか、大雑把なことしか判明しない。ベートーヴェンがウィーンに出てきた1792年7月からハイドン自身が第2回目の渡英をするまでの1794年1月29日までが、最長での教授を受けられる期間である。目的は厳格な対位法を学習するためである。

ただ、授業内容は大いにベートーヴェンを失望させ「自分が期待しても良いと思っていた優秀さにはお目にかからなかった」と明言している。また、ベートーヴェンの友人の記憶では、ベートーヴェンは「何らかの指導を受けたが何一つ学んだわけではない」と明言している。

ハイドン側にも第2回目の渡英で用意する作品の準備などで多忙であったこと、また現在残るハイドンとベートーヴェンの練習帳は、必ずしもベートーヴェンが間違えた箇所全てにハイドンの添削があるわけではなく、ハイドンの側にも多忙な一時期とは言え、親身な指導をしていないことも、ベートーヴェンを失望させる原因の一つと考えられる。

また、ベートーヴェンの雇用者(ボン選帝侯)に作曲の進捗具合を報告する際に、ハイドン自身とベートーヴェンとの間に意思疎通がなかったためか、旧作を間違えて送ってしまったり、ボン時代にすでに知られていた作品の改作などを送ってしまったため、ボン選帝侯よりの返書がハイドンの指導に疑念を遠まわしに投げかける内容になってしまったため、ベートーヴェンとハイドンの間に気まずい雰囲気を醸し出したことも影響して、ハイドンが弟子であるベートーヴェンと渡英しなかった理由とされている。(この弟子入りは当然有償で行われた。)

ハイドンが渡英した時点で、すでにベートーヴェンは、アルブレヒツベルガーの弟子に入門していた。 また、ハイドンの指導の結実として、モーツァルト同様にベートーヴェンも「弦楽四重奏曲6曲」をハイドンに献呈したが、ハイドンはこの「弦楽四重奏曲集」には全く理解を示さず、弟子たちには「私ならもっと別な作曲の仕方がある」と不満を口にしていた。

全ての教授してくれる人たちへのベートーヴェンの顕著な傾向として、指導を受けている最中は、その師匠の指示や方針に誠意を持って忠実に従うが、いざ、自分の作品となると、自分らしさを全面に押し出し、その師匠から学んだ成果を織り込んだりすることはなかったようである。

しかし、お互いに喧嘩したりと離反することは一度もなかった。それは、ハイドンへの弟子入りはボンの選帝侯の意思によっており、自分自身の意向で物事を決められる立場ではなかったこと、ベートーヴェンにとってもハイドンの影響力は絶大なものがあったからである。


(ウィーン時代)ヨハン・シェンク。資料に乏しく、資料として残るのはシェンク自身、ベートーヴェンへ教授して以降、相当の時間を置いて証言しており、どの程度の信用性があるか疑問が大きい。セイヤー説では1793年8月から1794年5月説を主張しているが、現在では、シェンクの教授を受け始めた時期としては、ハイドンの教授が始まって「年単位」ではなく「週単位」の時間差であろうとする見方が主流である。(ハイドンの教授に不満を覚えたベートーヴェンが、ハイドンには内緒で他の音楽家へ教授を受けたということである。それも、ハイドンの教授が始まってから数週間程度の時間差しかないことを主張している。)

シェンクがベートーヴェンに言及しているのは、前述の通り相当の歳月が経過した後で、記憶の錯綜もある可能性がある。だが、ベートーヴェンを教授して最初に感じた印象は、「厳格対位法」の初歩的な理論がベートーヴェンに正しく理解されていなかったと証言している。ハイドンでの「厳格対位法」の教授から僅かの時間差を経てシェンクに学び始めたということもあるだろうが、ハイドンも真剣に教授しようとするには余りにも時期的に多忙すぎる不運な時期であったかもしれない。

(ウィーン時代)ヨハン・アルブレヒツベルガー。アルブレヒツベルガー自身、多作な作曲家であり、ベートーヴェンには「厳格対位法」の基礎を教えなおした。対位法のうち、フーガ形式のものはアルブレヒツベルガーのもとでは学ぶことが出来なかったが、それでもその形式の構成要素や、その適用の仕方は学ぶことが出来た。

このアルブレヒツベルガーの元でのベートーヴェンの学習は、毎週3回、アルブレヒツベルガーが、教授が終了するまで160頁を残していることから、ノッテボームの研究により、約15箇月と推定された。このアルブレヒツベルガーからは「対位法」のうち、「フーガ」は学べなかったが、本格的な「厳格対位法」について学べた機会は、アルブレヒツベルガーの元で得た知識が元になっている。

(ウィーン時代)アントニオ・サリエリ。資力にとぼしい作曲家を無料で教授するという条件で、ベートーヴェンはイタリア語歌曲の作曲法について学び、教授が1802年で終了した後も、イタリア語歌曲を作曲する場合は、必ず助言を求めていたほどの親密さがあった。どの教授も、ハイドン以外の人たちとは教授が終わると、程度の差こそあれ、疎遠になってしまうが、サリエリの場合だけは例外である。 その後、晩年にいたり、サリエリに関するスキャンダラスな噂(モーツァルト毒殺説)が流され、ベートーヴェンの耳にも情報が入り、「筆談帳」で、この話題を憂えている。

まとめ:1809年にハイドンも逝去し、モーツァルトに至っては1791年に逝去しており、ベートーヴェンは、この巨匠たちのたゆまぬ作品に対する努力の成果を全て知ることが出来た。また、貪欲に「純粋対位法」という難問を求めたことは、作曲の場において、各声部に独立した役割を与えるためであった。また対旋律の構築など、音楽の各声部を立体的に構築することにあった。

作風
初期
作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、ハイドン、モーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある。

中期
1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により脱出した。つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、徹底して形式的・法則的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。

中期の交響曲はスケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。

その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、後のロマン派の多くの作品がこれに追随した。

後期
1818年の二度目の危機の時にはスランプに陥っていたが、ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、対位法つまりポリフォニーを研究した。対位法は中期においても部分的には用いられたが、大々的に取り入れる事に成功し危機を乗り越えた。変奏曲やフーガはここに究められた。これにより晩年の弦楽四重奏曲、ピアノソナタ、交響曲第9番、『荘厳ミサ曲』、『ディアベリ変奏曲』などの後期の代表作が作られた。

後世の音楽家への影響と評価
ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。

ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(および、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。

中でもワーグナーは、ベートーヴェンの交響曲第9番における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒として、その理念をより押し進め、楽劇を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声で調性を拡大した。

一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークやチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルク、バルトーク、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ラッヘンマンにまで影響を与えている。

思想
ベートーヴェンはカトリックであったが敬虔なキリスト教徒とはいえなかった。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「キリストなどただの磔(はりつけ)にされたユダヤ人に過ぎない」と発言した。ホメロスやプラトンなどの古代ギリシア思想に共感し、バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学に近づき、ゲーテやシラーなどの教養人にも見られる異端とされる汎神論的な考えを持つに至った。

彼の未完に終わった交響曲第10番においては、キリスト教世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされる。これはゲーテが『ファウスト』第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や交響曲第9番につながった。

また、同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される美学からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文学ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルやモーツァルトなどから影響を受けた。また哲学者カントの思想に接近し、カントの講義に出席する事も企画していたといわれ、カントの美学をベートーヴェンは体現したともいわれる。

政治思想的には自由主義者であり、リベラルで進歩的な政治思想を持っていた。このことを隠さなかったためメッテルニヒのウィーン体制では反体制分子と見られた。

その他にも、天文学についての書物を深く読み込んでおり、彼はボン大学での聴講生としての受講やヴェーゲナー家での教育を受けた以外正規な教育は受けていないにも関わらず、当時においてかなりの教養人であった。

人物
身長は167cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質のがっしりとした体格をしていた。肌は浅黒く、天然痘の痕でひどく荒れており、決してハンサムとはいえなかったが、表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与えた。

基本的に服装に無頓着であり、若い頃は着飾っていたが、歳を取ってからは一向に構わなくなった。弟子のチェルニーは初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのよう」、「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。

また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者と誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑さを極めていたが、風呂と洗濯を好み、また生涯で少なくとも70回以上引越しを繰り返したことも知られている。当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでも他のどんな作曲家よりも尊敬されていたという。

性格は矛盾に満ちていて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷になるなど気分の揺れが激しかった。親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、傲慢で野蛮で非社交的という評判であった。

師ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。

パトロンのカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。

1812年テプリツェでゲーテと共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然(こうぜん)として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈(ふき)奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。

交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」のアントン・シンドラーの著作によるものが多い。しかし、この人物はベートーヴェンの死後、自分の立場が有利になるよう資料を破棄したり改竄(かいざん)を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはほとんど信憑性が認められてない。
聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。

死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説ある。テレーゼ・フォン・ブルンスウィックやその妹ヨゼフィーネ等とする説があったが、現在ではメイナード・ソロモンらが提唱するアントニア・ブレンターノ(クレメンス・ブレンターノらの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説が最も有力である。

メトロノームを初めて利用した音楽家だといわれている。
パンを入れて煮込んだスープ、魚料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。またワインを嗜み、銘柄はトカイワインを好んでいた。
コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れたという。

名前
原語であるドイツ語ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフェン[ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfən]、英語ではルードゥウィグ・ヴェン・ベイト(ホ)ウヴァン[luːdwɪg væn beit(h)ouvən]といった発音をされる。中国では外来語のvをfまたはwの異音と見なすので、「貝多芬(Beiduofen)」となる。

日本でも明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、ほどなく「ベートーヴェン」という記述が浸透していき、リヒャルト・ワーグナーのように複数の表記が残る(ワーグナー、ヴァーグナー、ワグネル)こともなかった。唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である。

姓に“van”がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラント(フランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人といえば、画家のヴァン・ダイク(van Dyck)、ファン・エイク(van Eyck)、ファン・ゴッホ(van Gogh)などがいる。

vanはドイツ語、オランダ語では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von(フォン)」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「ビート(Beet)農場(Hoven)主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。

偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在するが、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることが多い。例えば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。

死因また健康について
慢性的な腹痛や下痢は終生悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓、他、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属であるが、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に被曝したかについても諸説あり、以下のごとくである。

ワインの甘味料として用いられた酢酸鉛とする説。
1826年の1月から肝障害による腹水の治療を行ったAndreas Wawruch医師が腹部に針で穴を開けて腹水を排水した時、腹部に穴を開けるたびに髪の毛の解析では鉛濃度が高くなっていることから、傷の消毒のために使用された鉛ではないかとする説。
難聴について
難聴の原因については諸説ある。

耳硬化症説
伝音性の難聴であり、中耳の耳小骨の「つち・きぬた・あぶみ」の内のあぶみ骨が固まってしまい、振動を伝えなくなってしまった為に、音が聞こえなくなってしまう難病。ベートーヴェンの難聴が耳硬化症である論拠として、ベートーヴェンが人の声は全く聞こえてなかったにも関わらず、後ろでピアノを弾いている弟子に、「そこはおかしい!」と注意したエピソードが挙げられる。これは耳硬化症に特有の、人の声は全く聞こえなくなるが、ピアノの高音部は振動を僅かに感じることが出来る性質にあると考えられる。

又、ベートーヴェンは歯とピアノの鍵盤をスティックで繋ぐことで、ピアノの音を聞いていたという逸話もこの説を裏付ける論拠として挙げられる。

先天性梅毒説
「蒸発性の軟膏を体に塗り込んだ(水銀の可能性。当時梅毒の治療法の一つ)」という記述がある為に、論拠とされている。しかし、後にベートーヴェンの毛髪を分析してみた結果、水銀は検出されず、又、梅毒は眩暈(めまい)の症状を併発するにも関わらず、そういった話が無い為に、先天性梅毒説は説得力の乏しいものとなっている。

鉛中毒説

親族
祖父:ルートヴィヒ(同姓同名)
フランドル地方・メヘレン出身。ケルン大司教(選帝侯)クレメンス・アウグストに見出され、21歳でボンの宮廷バス歌手、後に宮廷楽長となった。
祖母:マリア・ヨゼファ
父:ヨハン
母:マリア・マグダレーナ  ヨハンとは再婚(初婚は死別)。肺結核により死去。
弟:カスパール・アントン・カール
甥:カール  カスパールの息子。1806年生まれ〜1858年没。1826年にピストル自殺未遂事件を起こす。
弟:ニコラウス・ヨーハン
弟子
カール・ツェルニー - クラヴィア奏者・作曲家。
フェルディナント・リース - クラヴィア奏者・作曲家。
ルドルフ大公 - ベートーヴェンの最大のパトロン。のちにオロモウツ大司教。弟子としては唯一、ベートーヴェンが彼のために曲を書いている。
ドロテア・エルトマン男爵夫人 - メンデルスゾーンと交流。
代表作

交響曲(全9曲)



第1番 ハ長調 op.21
第2番 ニ長調 op.36
第3番 変ホ長調 『エロイカ(英雄)』 op.55
第4番 変ロ長調 op.60
第5番 ハ短調 (運命) op.67
第6番 ヘ長調 『田園』 op.68
第7番 イ長調 op.92
第8番 ヘ長調 op.93
第9番 ニ短調 (合唱付き) op.125
管弦楽曲
『レオノーレ』序曲第1番 Op.138
『レオノーレ』序曲第3番 Op.72b
序曲『コリオラン』ハ短調 Op.62
交響曲『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い』 Op.91
『命名祝日』序曲 Op.115
『アテネの廃墟』序曲 ハ長調Op.117
『献堂式』序曲 ハ長調Op.124
協奏曲、協奏的作品 [編集]ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 『皇帝』 Op.73
ヴァイオリン協奏曲ニ長調 Op.61
ロマンス第1番 ト長調 Op.40
ロマンス第2番 ヘ長調 Op.50
三重協奏曲(ピアノ・ヴァイオリン・チェロのための)ハ長調 Op.56
合唱幻想曲 ハ短調 Op.80
室内楽曲
弦楽四重奏曲(全16曲)
第7番 ヘ長調(ラズモフスキー1) Op.59-1
第8番 ホ短調(ラズモフスキー2) Op.59-2
第9番 ハ長調(ラズモフスキー3) Op.59-3
第10番 変ホ長調(ハープ) Op.74
第11番 ヘ短調『セリオーソ』 Op.95
第12番 変ホ長調Op.127
大フーガ 変ロ長調 Op.133
弦楽五重奏曲 (全3曲)
ヴァイオリンソナタ(全10曲)
第5番 ヘ長調 『春』 Op.24
第9番 イ長調 『クロイツェル』 Op.47
チェロソナタ(全5曲)
ピアノ三重奏曲(全7曲)
第5番 ニ長調『幽霊』 Op.70-1
第7番 変ロ長調『大公』 Op.97
その他の室内楽曲
ホルン・ソナタ ヘ長調 Op.17
六重奏曲 Op.81b
七重奏曲 変ホ長調 Op.20
管楽八重奏曲 Op.103
ピアノ曲
ピアノソナタ(全32曲)  

第8番 ハ短調『悲愴』 Op.13
第14番 嬰ハ短調 『月光』 Op.27-2
第15番 ニ長調 『田園』
第17番 ニ短調『テンペスト』 Op.31-2
第21番 ハ長調 『ヴァルトシュタイン』Op.53
第23番 ヘ短調 『熱情』 Op.57
第26番 変ホ長調『告別』 Op.81a
第29番 変ロ長調『ハンマークラヴィーア』 Op.106
第30番 ホ長調 Op.109
第31番 変イ長調 Op.110
第32番 ハ短調 Op.111
その他のピアノ曲(変奏曲、バガテル等)

創作主題による6つの変奏曲 ヘ長調 Op.34
創作主題による15の変奏曲とフーガ(エロイカ変奏曲)変ホ長調 Op.35
『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』の主題による7つの変奏曲 ハ長調 WoO.78
『ルール・ブリタニア』の主題による5つの変奏曲 ニ長調 WoO.79
創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO.80
創作主題による6つの変奏曲 ニ長調 Op.76
ディアベリのワルツによる33の変容(ディアベリ変奏曲) ハ長調 Op.120
アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO.57
幻想曲 Op.77
ポロネーズ ハ長調 Op.89
7つのバガテル Op.33
11の新しいバガテル Op.119
6つのバガテル Op.126
バガテル『エリーゼのために』 WoO.59
オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品 [編集]歌劇『フィデリオ』 Op.72c
劇付随音楽『エグモント』Op.84
劇付随音楽『アテネの廃墟』 Op.113
バレエ音楽『プロメテウスの創造物』 Op.43
オラトリオ『オリーヴ山上のキリスト』 Op.85
カンタータ『静かな海と楽しい航海』 Op.112
別れの歌
宗教曲
ミサ曲 ハ長調 Op.86
ミサ・ソレムニス ニ長調 
修道僧の歌
皇帝ヨーゼフ2世の為の葬送カンタータ WoO.87
歌曲
アデライーデ Op.46
汝を愛す
鶉の鳴き声
新しい愛、新しい生
口づけ
追憶
懺悔の歌
モルモット(旅芸人)
連作歌曲集『遥かなる恋人に寄す』 Op.98
曇りのち、快晴


posted by kisebeauty at 09:06| Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月14日

美しすぎるロックバンド「フローレンス・アンド・ザ・マシーン」のジャケットをカール・ラガーフェルド(Karl Lagerfeld)がデザイン



カール・ラガーフェルド(Karl Lagerfeld)が、ロックバンド「フローレンス・アンド・ザ・マシーン(Florence and the Machine)」の限定アナログ盤シングルのジャケットをデザインした。

 フローレンス・アンド・ザ・マシーンは10月31日にセカンドアルバム『セレモニアルズ(Ceremonials)』をリリース。これを記念し て、英国アルバムの収録曲「シェイク・イット・アウト(Shake It Out)」のアナログ盤シングルを500枚限定で発売したジャケットには、カールが撮影したフローレンスの写真をプリントし、シルバーのホイール加工を施した。シリアル番号入りで、価格は50ポンド(約6260円)。

 「フローレンス・アンド・ザ・マシーン」のボーカルを務めるフローレンス・ウェルチ(Florence Welch)は、カールのミューズとしてファッション界からも注目されている人物。10月には、「シャネル(CHANEL)」の12年春夏コレクション会場でライブパフォーマンスを披露し、話題となった。





デザイナーのカール・ラガーフェルド(Karl Lagerfeld)が手がける「シャネル(CHANEL)」は4日、フランス・パリの「グラン・パレ(Grand Palais)」で12年春夏コレクションを発表した。

■真っ白な海の世界

 真っ白のサンゴ礁やエイなど、海底をおもわせる巨大なオブジェが設置されたランウェイには、海のモチーフをとりいれたホワイトやパステルカラー、シルバーのドレスやスーツに身を包んだモデルが次々と登場した。

 カールは「海をモチーフにしたが“人魚”のように見えることは避けたかった。人魚なんて、この世に存在しないからね。それよりも、海底に生きる 植物や海藻、魚などが今シーズンのインスピレーション源になった」と語る。

■軽やかなテキスタイル

 クラシックな膝丈のドレスやスーツは、ホワイトやパステルピンク、アイスブルー、海の泡のようなグリーンなど、軽やかなカラーパレット で展開。レイヤーやひだ飾り、ラッフルなどのディティールが光る。

 また、水中ならではの浮遊感を、特殊加工を施した軽やかな素材で表現した。「今回のようなコレクションに、伝統的な厚手の素材を使っていたら、 ひどい出来になっただろう。全ての素材は3グラムほどの重さしかない」とカールは語る。

 ホワイトのビキニは、ブラックの模様が入ったシースルーのレインコートをコーディネート。「ビーチにはパーフェクトだろ?」とカール。

■シャネルの象徴を・・・

 スカートはどれも膝丈が中心。ロングドレスはわずか3ルックしかなかった。「それで充分。ロングドレスなら、これまでに何度も登場しているか ら」とカールは語る。

 黒でトリミングしたツイードジャケットやドレスといったシャネルの象徴的なデザインを控えめにした理由いついては、「みんながツイードやボタ ン、トリミングといった象徴を模倣し“シャネルの偽者”を作っている。しかし、私にはそうする必要がない」とコメント。さらに「これまでの定番を すべて他のものに置き換え、多様化をはかった。すべてを除外しすぎてしまったほどだよ」語る。

 その言葉通り、定番であるウエストチェーンは、パールに置き換えられた。また、そのほかにもパールは、モデルのヘアスタイルを飾るアクセサリー やネックレスにも使われた。

■フローレンス・ウェルチの生ライブ

 さらに会場に設置された貝殻のステージ上では、ホワイト×ブラックのドレスに身を包んだ歌手フローレンス・ウェルチ(Florence Welch)がライヴ・パフォーマンスを披露した。

 ショーに出席した女優のユマ・サーマン(Uma Thurman)は、「徹底的で究極なまでに贅沢で美しかった。純粋なままの素晴しいショー」と称賛した。



デザイナーのカール・ラガーフェルド(Karl Lagerfeld)や「グッチ(Gucci)」のミューズとして知られる歌手のフローレンス・ウェルチ(Florence Welch、24)が、自身のファッションラインのプロデュースを企画している。

 BANGショービズによると、フローレンスはスタイリストのオールデン・ジョンソン(Aldene Johnson)とタッグを組み、手頃な価格のアイテムを展開したいと考えているという。成功を収めたケイト・モス(Kate Moss)と「トップショップ(TOPSHOP)」のコラボのようなコレクションを想定している模様だ。

 関係者は「フローレンスは、自身の奇抜なミックススタイルを反映させたコレクションを作りたいと考えているようです。彼女は、ヴィンテージ・ドレスやカールから贈られた洋服など、ユニークなアイテムを多数持っています。ケイトのように、自分のワードローブからインスパイアされたコレクションをオールデンと一緒に作ろうとしています」とコメント。

 現在はファッション界からも注目されているフローレンスだが、17歳の頃までは自分を美しいと思えなかったという。「私は背が低くてぽっちゃりした子どもだったから、外見に自信を持つには時間がかかったわ。17歳になり、やっと自信が芽生え、自分が着たい服を着るようになったの」とフローレンス。さらに「10代の頃、安全ピンを留めたチャリティショップのヴィンテージドレスを着て、親友と一緒にバーレスク・ショーに通い始るようになったの。そのうちに、『洋服で自己表現ができる』と感じるようになったわ」と語った。



「グッチ(GUCCI)」のフリーダ・ジャンニーニ(Frida Giannini)クリエイティブ・ディレクターは、歌手のフローレンス・ウェルチ(Florence Welch)から11/12年秋冬コレクションのインスピレーションを得たという。

 フリーダは「今回のコレクションをイメージしているときに、強くてどこかミステリアスなミューズを思い描いていました。フローレンスは、まさにぴったりの女性です」と英ファッションサイト「Dazed Digital」のインタビューでコメント。さらに「今年のグラミー賞授賞式(Grammy Awards)で彼女と出会い、その存在感に心を奪われました。彼女は、力強い個性の持ち主であり、魅力的なパフォーマーです。また、自信に満ちた堂々とした姿は、まさにグッチの女性像と合致します」と語った。

 これまでフリーダは、マーク・ロンソン(Mark Ronson)やリアーナ(Rihanna)、ジェームズ・フランコ(James Franco)といったミュージシャンをキャンペーンに起用してきた。その後彼らが大きな成功を収めたことは、フリーダの新たな才能を見出す才能を証明している。これについては「現在のように人気になる前から3人と一緒に仕事をしていました。グッチは、過去と現在の架け橋のような存在として成功していると思います。豊かな過去を持つ一方で、この様なアーティストとのコラボレーションに象徴される未来を見据えることも忘れないのです」と語った。


★フローレンス・アンド・ザ・マシーン



基本情報
出身地 イングランド•ロンドン
ジャンル フォーク・ロック、インディー・ポップ、インディー・ロック、バロック・ロック、アート・ロック、ソウル
活動期間 2007年 - 現在
レーベル モシモシ、アイアムサウンド、アイランド
公式サイト florenceandthemachine.net
メンバー
フローレンス・ウェルチ
ロバート・アクロイド
クリストファー・ロイド・ヘイデン
イザベラ・サマーズ
トム・モンガー

フローレンス・アンド・ザ・マシーン(Florence and the Machineまたは、Florence + The Machine)はイギリスのミュージシャンフローレンス・ウェルチを中心とするバンドである。ロックとソウルに色々なジャンルの音楽を組み合わせたサウンドで知られる。

彼らはメーンストリームで成功を掴む前に、音楽メディア全体に称賛された。特にBBCの音楽番組『BBC イントロデューシング』への出演は、彼らを飛躍させた。

2009年7月6日に発売されたデビュー・アルバム『ラングス』は、全英アルバムチャートで5週連続2位を記録した後、2010年1月17日に首位を獲得。首位を獲得するまで28週間連続でチャート入り。また、65週に亘って上位40位内に入った。アルバムは、ブリット・アワードのマスターカード・最優秀ブリティッシュ・アルバム賞を受賞した。2010年にMTV Video Music Awards、ノーベル平和賞コンサートに出演。第53回グラミー賞で新人賞にノミネートされた。

★フローレンス・ウェルチ歌手(Florence Welch)1986年8月28日生まれ
Florence and the Machineは フローレンス・ウェルチという女性アーティストを中心とした5人組(現在は7人組らしいです)。2007年より活動を開始しました。

00florence-welch-pic.jpg

メジャー・デビュー前にリリースした2枚のシングルで音楽業界から注目を集めます。待望の1stアルバムは全英1位を獲得し、ブリット・アワードの最優秀ブリティッシュ・アルバム賞を受賞!そしてグラミー賞の新人賞にまでノミネートされる世界的ブレイクを果たしたのです。

00F W.jpg

---あなたの1番好きなスナックは?

わさび豆とお寿司が好きで、とにかく私は、和食党なのよ!

---あなたのデビュー・パートナーの夢は?

私にとっては、ジャスティン・ティンバレーク(Justin Timberlake)とのデビューが夢なの!
彼の声は素晴らしいし、もう彼に夢中なのよ! もし彼がダンスを申し込んできたら、勿論喜んでお受けするわよ!

---あなたが魅かれるセレブリティーは?

ジェイク・ジレンホール(Jake Gyllenhaal)よ。

もっと若い頃に私は、絶対に彼のガールフレンドになれないのだと思って、悲嘆にくれた想い出がまだ心の中に残っているの。

posted by kisebeauty at 06:51| Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月28日

クラシック音楽界への登竜門、第80回日本音楽コンクール:声楽部門でやわらかく輝かしい中高音域で聴衆を魅了した西村悟さんが優勝!聴衆賞も獲得

◆<日本音楽コンクール>ピアノ部門、浜野与志男さんが優勝

 クラシック音楽界への登竜門、第80回日本音楽コンクール(毎日新聞社、NHK共催、特別協賛=三井物産、協賛=岩谷産業株式会社)の本選会シリーズが22日、東京オペラシティで始まった。初日はピアノ部門が行われ、満員の聴衆が詰め掛けた中、プロコフィエフの協奏曲第2番を弾いた浜野与志男さん(22)=東京芸大4年=が、幅の広い豊かな音色で聴衆を引きつけ、優勝した。

 236人の応募から3度の予選を通過した4人が、円光寺雅彦指揮東京交響楽団とそれぞれ得意の協奏曲を競演。野島稔、楊麗貞ら11氏が審査した。

 他の入賞・入選者は次の通り。(敬称略、同位は演奏順)

 ▽第2位 なし▽第3位 崎谷明弘(23)=フランス国立パリ高等音楽院大学院、古賀大路(18)=上野学園高3年▽入選 江崎萌子(18)=桐朋女子高3年▽岩谷賞(聴衆賞) 浜野与志男

◆日本音コン:本選会 作曲部門 魚路恭子さん1位
 第80回日本音楽コンクール(毎日新聞社、NHK共催、特別協賛・三井物産、協賛・岩谷産業株式会社)の本選会シリーズ最終日は27日、東京オペラシティで作曲部門が行われ、第1位には言葉とアンサンブルを新たな視点で組み直した魚路恭子さん(34)=東京芸大大学院修了=の「Apple Cord」が選ばれた。今年の課題は室内楽。応募の76作品から2度の譜面審査を通過した7作品が、板倉康明指揮東京シンフォニエッタによって初演され、池辺晋一郎、野平一郎ら11氏が審査した。

 他の入賞・入選は次の通り。(敬称略、入選は演奏順)

 第2位 薮田翔一(28)=東京音大大学院修了▽第3位 江原大介(29)=東京芸大大学院修了▽入選 松井優尚(34)=ザルツブルク・モーツァルテウム音大大学院、白藤淳一(30)=岩手大大学院修了、横山和也(25)=東京学芸大大学院修了、坂田直樹(30)=パリ国立高等音楽院修士課程▽岩谷賞(聴衆賞) 魚路恭子

    ◇

 本選終了後、コンクール委員会が開かれ、今コンクールを通して最も印象的な演奏・作品に贈られる増沢賞に、岡本侑也さん(チェロ)が選ばれるなど各賞が次のように決まった。(敬称略)

 <野村賞、井口賞、河合賞>浜野与志男(ピアノ)<三宅賞>該当なし<レウカディア賞、鷲見賞>藤江扶紀(バイオリン)<徳永賞、黒柳賞>岡本侑也<明治安田賞>魚路恭子(作曲)<E・ナカミチ賞>日橋辰朗(ホルン)<コンクール委員会特別賞>該当なし

◆日本音楽コンクール:声楽部門、西村悟さんが優勝

 クラシック音楽界への登竜門、第80回日本音楽コンクール(毎日新聞社、NHK共催、特別協賛=三井物産、協賛=岩谷産業株式会社)の本選会シリーズ3日目は24日、東京オペラシティで声楽(オペラアリア)部門が行われた。「ブラボー」の歓声が飛び交うオペラらしい熱気の中、グノー「ファウスト」の「この清らかな住まい」などを歌い、やわらかく輝かしい中高音域で聴衆を魅了した西村悟さん(30)=テノール・東京芸大大学院修了=が優勝した。

 158人の応募から2度の予選を通過した5人が、飯森範親指揮東京フィルハーモニーとそれぞれ得意のアリアを競演。林康子、松本美和子ら11氏が審査した。

 他の入賞・入選者は次の通り。(敬称略、入選は演奏順)

 ▽第2位 富岡明子(33)=メゾソプラノ・東京芸大大学院修了▽第3位 安保克則(35)=テノール・東京芸大大学院修了▽入選 古橋郷平(34)=テノール・沖縄県立芸大大学院修了、ジョンハオ(34)=バス・東京芸大大学院修了▽岩谷賞(聴衆賞) 西村悟

◆日本音楽コンクール:バイオリン部門で藤江扶紀さん優勝

00藤江.jpg

バイオリン部門で1位となった藤江扶紀さん=東京都新宿区の東京オペラシティで2011年10月23日、武市公孝撮影 クラシック音楽界への登竜門、第80回日本音楽コンクール(毎日新聞社、NHK共催、特別協賛=三井物産、協賛=岩谷産業株式会社)の本選会シリーズ2日目は23日、東京オペラシティでバイオリン部門が行われた。詰め掛けた聴衆の熱気の中、チャイコフスキーのバイオリン協奏曲に情熱的な音楽性を聴かせた藤江扶紀さん(20)=東京芸大3年=が優勝した。

 93人の応募から3度の予選を通過した5人が、渡邊一正指揮、日本フィルハーモニーとそれぞれ得意の協奏曲を競演。岡山潔、澤和樹ら11氏が審査した。

 他の入賞・入選者は次の通り。(敬称略、入選は演奏順)

 ▽第2位 篠原悠那(18)=桐朋女子高3年▽第3位 城戸かれん(17)=東京芸大付高2年▽入選 寺内詩織(21)=桐朋学園大4年、宮川奈々(20)=桐朋学園大2年▽岩谷賞(聴衆賞) 篠原悠那

◆ホルン部門は日橋辰朗さん優勝

ホルン部門で1位になった日橋辰朗さん=東京都新宿区の東京オペラシティコンサートホールで2011年10月25日、西本勝撮影 クラシック音楽界への登竜門、第80回日本音楽コンクール(毎日新聞社、NHK共催、特別協賛=三井物産、協賛=岩谷産業株式会社)の本選会シリーズ4日目は25日、東京オペラシティでホルン部門が行われた。管楽器ファンなどが詰め掛けた中、課題曲のトマジ「ホルンとオーケストラのための協奏曲」に豊かな音と高度な技量を披歴した日橋辰朗さん(23)=東京音大卒=が優勝した。

 124人の応募から2度の予選を通過した4人がピアノ伴奏で競演。守山光三、山本真ら11氏が審査した。

 他の入賞・入選者は次の通り。(敬称略、同位は演奏順)

 ▽第2位 岸上穣(26)=東京都交響楽団団員、浜地宗(23)=神奈川フィル団員▽第3位 なし▽入選 豊田実加(21)=東京芸大4年▽岩谷賞(聴衆賞) 日橋辰朗

   ◇

 2位に入賞した浜地さんは仙台市出身で高校まで同市で過ごした。通った学校も東日本大震災で被災し、高校の友人2人が亡くなった。実家は無事だったが叔父の家が全壊するなど周りの被害は大きい。「今日の曲は田園風景を描いているので、被災する前ののどかな宮城の風景を思い浮かべながら吹きました。入賞が被災した人々の元気づけに少しでもなれば」と喜びを語った


◆本選会 チェロ部門 岡本さん優勝
 クラシック音楽界への登竜門、第80回日本音楽コンクール(毎日新聞社・NHK共催、特別協賛=三井物産、協賛=岩谷産業株式会社)の本選会シリーズ5日目は26日、東京オペラシティでチェロ部門が行われた。課題曲のハイドン「チェロ協奏曲ニ長調」で高度な技量と音楽性の見事に融合した歌い回しを聴かせた岡本侑也さん(17)=東京芸大付高2年=が優勝した。

 78人の応募から2度の予選を通過した4人が山田和樹指揮アンサンブルofトウキョウと競演。堤剛、藤原真理ら11氏が審査した。

 他の入賞・入選者は次の通り。(敬称略、同位は演奏順)

 ▽第2位 上村文乃(20)=桐朋学園大ソリストディプロマコース3年▽第3位 三井静(19)=桐朋学園大2年▽入選 加藤陽子(25)=東京芸大大学院修了▽岩谷賞(聴衆賞) 岡本侑也
posted by kisebeauty at 18:33| Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月08日

PJハーヴェイの「レット・イングランド・シェイク(Let England Shake)」が英国及びアイルランドでその年の最も優れたアルバムに贈られる音楽賞「マーキュリー賞を受賞


 写真は、会場に姿を見せたハーヴェイ



英国及びアイルランドでその年の最も優れたアルバムに贈られる音楽賞「マーキュリー賞(Mercury Prize)」の授賞式が6日、英ロンドン(London)で行われ、PJハーヴェイの「レット・イングランド・シェイク(Let England Shake)」が受賞した。ハーヴェイは2001年にも受賞しており、92年に創設された同賞で、1人のアーティストが2度受賞したのは初めてだ。

 審査員の1人コリーヌ・ベイリー・レイ(Corinne Bailey Rae)によれば、難しい判断だったが、審査員全員一致でハーヴェイの作品に決まったという。ハーヴェイには賞金2万ポンド(約250万円)も贈られた。

 幅広いアーティストがノミネートされることで知られる同賞。過去の受賞者には、プライマル・スクリーム(Primal Scream)、スウェード(Suede)、パルプ(Pulp)、ミズ・ダイナマイト(Ms Dynamite)、フランツ・フェルディナンド(Franz Ferdinand)、アークティック・モンキーズ(Arctic Monkeys)らがいる。

★PJ ハーヴェイ(Polly Jean Harvey、1969年10月9日)はイギリスのミュージシャン、シンガーソングライター。

来歴
生い立ち
ドーセットで石工の父親の元に生まれ、農場で育った。両親は音楽好きで、幼いころからブルース、ジャズ、アート・ロックを聴かせてくれたという。「ジョン・リー・フッカー、ハウリン・ウルフ、ロバート・ジョンソン、ジミ・ヘンドリクスを聴いて育った。」とローリングストーン誌のインタビューに答えている。サックスを8年間習い、17歳の時に曲を書き始めた。しかしミュージシャンになる予定はなくセントラル・セント・マーチンズ・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザインで彫刻を勉強していた。

デビュー
1991年に自主レーベルからデビューシングルを発売。ローリングストーン誌のベストソングライターに選出されるなど各方面から絶賛され、カート・コバーンが「好きなアルバムTOP20」にPJハーヴェイの「Dry」を選出したことでさらに有名になる。1992年にはNME誌の表紙をトップレスで飾った。

コラボレーション
ジョシュ・オム、ニック・ケイヴ、ボブ・ディラン、スパークルホース、マリアンヌ・フェイスフルらとの共演がある。

ディスコグラフィー
スタジオアルバム
Dry (1992)
Rid of Me (1993)
To Bring You My Love (1995)
Is This Desire? (1998)
Stories from the City, Stories from the Sea (2000)
Uh Huh Her (2004)
White Chalk (2007)
Let England Shake (2011)
コンピレーション
4-Track Demos (1993)
The Peel Sessions 1991–2004 (2006)

posted by kisebeauty at 21:54| Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする