2011年12月13日

女優のミラ・ジョヴォヴィッチが「2012年 ピレリ・カレンダー」ヌードを披露


伊タイヤメーカー「ピレリ(Pirelli)」が制作する「2012年 ピレリ・カレンダー(Pirelli Calendar)」で、女優のミラ・ジョヴォヴィッチ(Milla Jovovich)がヌードを披露した。

 撮影はミラと長年親交のあるフォトグラファー、マリオ・ソレンティ(Mario Sorrenti)が担当。地中海に浮かぶコルシカ島でシューティングが行われた。

 ミラは「マリオと私は、10代の頃から友人です。気の知れた古くからの友人と仕事をするのは、一番素敵なこと。私がヌードになれるフォトグラ ファーは彼ぐらいしかいません」とコメント。さらに「セックスアピールや純粋さ、親密さ、官能性…たくさんの感情が込められています。しかし、最終的には魔法のような決定的瞬間を捉えた一枚が出来上がるのです」と語った。

 今年度のカレンダーでは、ミラ以外にも、ソレンティの元恋人でモデルのケイト・モス(Kate Moss)や、女優の菊地凛子(Rinko Kikuchi)らがヌードを披露している。

★ミラ・ジョヴォヴィッチMilla Jovovich

本名 Milica Jovović
生年月日 1975年12月17日(35歳)
出生地 ソビエト連邦 キエフ
国籍 アメリカ合衆国
職業 女優
配偶者 ショーン・アンドリュース (1992 - 1992)
リュック・ベッソン (1997 - 1999)
ポール・W・S・アンダーソン(2009-)
家族 夫:ポール・W・S・アンダーソン
長女:エヴァー
公式サイト http://www.millaj.com
主な作品
『フィフス・エレメント』
『バイオハザード』シリーズ

ミラ・ジョヴォヴィッチ(ウクライナ語:Мілла Йовович;セルビア語:Милица Јововић;ラテン文字表記:Mila Jovović;ロシア語:Милла Йовович、1975年12月17日 - )は、アメリカ合衆国の女優、モデル。



生い立ち
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の首都キエフに生まれる。父親はコソヴォ出身のセルビア人医師ボギチ・ヨヴォヴィチ(Богић Јововић)、母親はドニプロペトロウシク生まれのロシアの女優ガリーナ・ジョヴォヴィチ(ru 旧姓ロギノワ)。

キエフからロンドン、モスクワへと移り住み、5歳の時にアメリカ合衆国ロサンゼルスに移住。移住後に両親は離婚。母親と二人三脚で演技を歩み始める。その後父親は再婚し1988年に異母弟が生まれる。

その学校時代を通してミラは酷いいじめを経験した。ちょうど冷戦時代のソビエト連邦から来たということが禍して、同級生らから『ロシアのスパイ』『コミー』(commie コミュニスト)などと罵倒されていたという。

キャリア
1987年、11歳からロシアのモデルとして(elite)モデルエージェンシーに所属し活躍していた。1988年には化粧ブランドレブロンの「Most Unforgettable Women in the World」に選ばれる。以降、多くの雑誌のカバー(表紙)やミラノ、パリ、ニューヨークのファッションデザイナーのコレクションショーに出演している。広告ではカルバン・クライン(Calvin Klein)の香水エスケープ(Escape)のイメージモデルとして有名である。モデルの仕事と同時に映画への出演もしていたが、1991年に女優としての仕事に専念する為に2年の休暇を取りモデルエージェンシーとの所属契約を解除する。

映画では1987年に『トゥー・ムーン』でヒロインの妹役でスクリーンデビューする。1991年にはブルック・シールズ主演映画『青い珊瑚礁』の続編『ブルーラグーン』に主演。その後女優としての目立った活躍は無かったが、1997年にはリュック・ベッソン監督の『フィフス・エレメント』のヒロイン役で見せた演技力、美しさが大きな話題となる。この映画では全ての衣装をフランスのデザイナー、ジャン=ポール・ゴルチエが担当した。1999年の『ジャンヌ・ダルク』や2002年の『バイオハザード』はシリーズ作品として彼女の代表的な作品となる。

その他に「ミラ」の名前で音楽活動もしており、1994年には『The Divine Comedy』を発表。モデルや女優の仕事を続けながら、バンド「プラスティック・ハズ・メモリー」でコンサート・ツアーも敢行した。

また、モデル仲間のカルメン・ホーク(Carmen Hawk)と共に2003年にJovovich-Hawk(ジョヴォヴィッチ ホーク)というブランドを立ち上げ、ファッションデザイナーとしても活動している。Jovovich-Hawkはロサンゼルスとニューヨークに拠点がある。

日本ではオンワード樫山、キヤノン、ホンダ・オデッセイ、パナソニックのCMなどの出演がある。

私生活
英語の他にロシア語、フランス語に堪能。

1992年にショーン・アンドリュースと結婚したが直ぐに離婚。
1997年に映画監督リュック・ベッソンと結婚するが1999年に離婚。その後、『バイオハザード』シリーズの監督ポール・W・S・アンダーソンと撮影を通して知り合い、交際を経て婚約。
婚約中の2007年11月3日に娘エヴァーを出産。
2009年8月22日にアンダーソンと自宅で挙式し、三度目の結婚をした。

主な出演作品
トゥー・ムーン Two Moon Junction (1988)
ブルーラグーン Return to the Blue Lagoon (1991)
カフス! Kuffs (1992)
チャーリー Chaplin (1992)
フィフス・エレメント The Fifth Element (1997)
ラストゲーム Last Game (1998) デンゼル・ワシントンとのセックスシーンが話題を呼んだ。
ジャンヌ・ダルク Joan of Arc (1999)
ミリオンダラー・ホテル The Million Dollar Hotel (2000)
めぐり逢う大地 THE CLAIM (2000)
ズーランダー Zoolander (2001)
ノー・グッド・シングス No Good Deed (2002)
キング・オブ・ザ・ヒル King of the Hill (2002) テレビシリーズ、声の出演
バイオハザード Resident Evil (2002)
ダミー Dummy (2002) 日本未公開
プリティ・イン・ニューヨーク You Stupid Man (2002) 日本未公開
バイオハザードII アポカリプス Resident Evil: Apocalypse (2004)
ウルトラヴァイオレット Ultraviolet (2006)
ポイント45 .45 (2006)
バイオハザードIII Resident Evil: Extinction (2007)
パーフェクト・ゲッタウェイ A Perfect Getaway (2009)
THE 4TH KIND フォース・カインド The Fourth Kind (2009)
バイオハザードIV アフターライフ Resident Evil: Afterlife (2010)
ストーン Stone (2010)
三銃士/王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船 The Three Musketeers (2011)
バイオハザードV リトリビューション Resident Evil: Retribution (2012)
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2011年11月20日

"6年間にわたる眠りから覚めた"モスクワのボリショイ劇場で、改装後初となる全幕バレエ「眠れる森の美女」のリハーサルが行われた







6年間にわたる大改装を終えたモスクワ(Moscow)のボリショイ劇場(Bolshoi Theatre)で、改装後初となる全幕バレエ「眠れる森の美女(The Sleeping Beauty)」のリハーサルが行われた


Nina Kaptsova in "The Sleeping Beauty".Aurora Variation 1


The Sleeping Beauty, The Bolshoi Ballet, Nina Semizorova


Sleeping Beauty Ballet - Grand Pas de Deux - 14 ballerinas


★ボリショイ劇場 (露: Большой театр、英: Bolshoi Theatre、正式名称: 国立アカデミー・ボリショイ劇場 〔Государственный академический Большой театр России〕) は、ロシアのモスクワにある劇場。ロシアを代表するバレエ、オペラ劇場(歌劇場)である。

「ボリショイ」とはロシア語で「大きい」を意味し、単純には「大劇場」。ロシア国内のいくつかの都市には複数の劇場が存在し、大きなものをボリショイ劇場と呼び、小さいものをマールイ劇場と呼ぶ慣習がある。ロシア国外では、一般に「ボリショイ劇場」と言った場合はモスクワのボリショイ劇場を指す。



沿革
帝政時代 (1856年)1776年ピョートル・ウルソフ(Petr Urussov)公爵とマイケル・マドックス(Michael Maddox)によって、ウルソフ公爵邸でオペラやバレエ、ドラマの上演が行われたことがボリショイ劇場の起源であるとされる。その後1780年モスクワ・モホヴァヤ通りのパシュコーフ邸を得て、ペトロフカ劇場(Petrovka Theatre またはペトロフスキー劇場)を専属の劇場とする。この劇場で演劇とオペラを制作・発表するようになった。

やがて帝室劇場の管理下に置かれるが、現在のボリショイ劇場の建物を得るまで計3回の火災に見舞われる。1805年の火災でアルバート通りの新アルバート帝国劇場に移転するものの、この劇場も1812年ナポレオンのモスクワ侵攻の際、モスクワ大火で焼失した。


ソ連時代 (1932年2月)1825年現在のテアトラーリナヤ広場(Teatralnaya Square 劇場広場)の敷地にA.ミハイロフ、オシップ(イオアン)・イワノヴィッチ・ボヴェ(Osip Ivanovich Bove)の設計のもと、建設された。尚、これに先立つ1824年ボヴェは、マールイ劇場(「小さい劇場」の意)を建設している。ボリショイ劇場は1825年1月18日落成し、当初、ロシアの作品のみを上演し、外国人の曲目、作品が上演されるようになるのは1840年を待たなければならなかった。しかしこのロシア古典主義様式に基づく劇場も1853年に火災に遭い、甚大な被害を受けた。1856年アリベルト(アルベルト)・カヴォス(Albert Kavos, オペラ作曲家カテリーノ・カヴォス(Caterino Kavos)の息子)によって焼け残った正面列柱と壁面を生かして改修工事が行われた結果、現在の劇場が完成した。また、この改修工事の際に正面破風の上に彫刻家P.クロットによる太陽神アポロンの四頭立て馬車(クァドリーガ)の彫刻に換えられた。

独ソ戦で劇場はドイツ軍の攻撃により被害を受けたが、すぐに修繕されている。ボリショイ劇場の施設は、観客席数6層2150席をホールに有する。2002年11月に1000人を収容できる小劇場(ボリショイ劇場新館)が建設された。

オペラとボリショイ・バレエ
ボリショイ劇場の内部ボリショイ劇場は管弦楽団とバレエ団を有している。ボリショイ劇場におけるオペラとバレエは、19世紀のロシア帝国の強大化を背景に、国民楽派の隆盛や西ヨーロッパのバレエ作品の上演によって西欧に比肩するものに成長していった。ただしバレエについては、帝政時代には、宮廷のあるサンクトペテルブルクのマリインスキー劇場に遅れをとらざるを得なかった。ボリショイ劇場が名実ともに世界にロシアを代表する歌劇場となる転機となったのがロシア革命である。ボリショイ劇場はソ連政府の国立劇場となり、全面的な援助、後援(それにともなう統制も含むが)を受けることとなる。

オペラ
ボリショイ劇場ではロシアを代表する大作曲家のオペラ、楽曲が公演されてきた。特に19世紀から20世紀にかけて、国民楽派の勃興、グリンカ、ロシア5人組に代表される音楽家の出現によって彼らの手になるオペラの上演が行われた。また、チャイコフスキーは、交響的バラード 作品78 「地方長官 (Voyevode)」 をラフマニノフはオペラ 『アレコ』、『フランチェスカ・ダ・リミニ』 をボリショイ劇場で公演している。さらにこうしたオペラを後押ししたのが、ボリショイ劇場所属の歌手たちで、フョードル・シャリアピンを筆頭に名歌手の演技が評価されることとなった。


ボリショイ・バレエは、モスクワのボリショイ劇場を本拠地とするバレエ団であり、サンクトペテルブルクのマリインスキー・バレエとともにロシアを代表するバレエ団である。チャイコフスキーのバレエ 『白鳥の湖』 は、1877年にボリショイ劇場で初公演が行われた。ソビエト連邦時代にはバレエ団が数百あったといわれるバレエ大国において、バレエ界を牽引する中心的な役割を担ってきた。

マリインスキー劇場は宮廷を起源とし、王族・皇族の庇護のもと貴族階級を対象にした劇場であったのに対し、ボリショイ劇場は、地元の名士(公爵)が開設し裕福な商人階級向けに発展を遂げてきた。1902年ボリショイ・バレエ団長に就任したアレクサンドル・ゴルスキーは、ボリショイ劇場でのバレエ演目を増やすとともに、演劇改革運動に触発され、バレエの世界に新風をもたらした。

ロシア革命後は、レニングラード(現サンクトペテルブルク)からモスクワへの遷都と、ソ連政府によって最も重要な国立劇場として位置づけられたことに伴い、マリインスキー劇場からバレエ関係者(教育者、振付師、ダンサーなど)が次第にボリショイ劇場へと活躍の場を移していった。こうした人材の流入によって新たな作品と後進が育成された。第二次世界大戦後は、スターリンによってマリインスキー劇場から移籍したガリーナ・ウラノワの活躍や、スターリンの死後1950年代後半から始まった国外公演によってボリショイ・バレエの名声は国際的なものへと成長した。

ボリショイ・バレエのレパートリーは、チャイコフスキーの三大バレエ(『白鳥の湖』 『眠れる森の美女』 『くるみ割り人形』)、ハチャトゥリアンの 『スパルタクス』 をはじめ、古典、新作など多岐にわたる。ソ連崩壊後は、言論統制がなくなり西ヨーロッパ諸国の作品も上演するようになった。

なおボリショイ・バレエには支部としてブラジル南部の都市、ジョインヴィレにボリショイ劇場学校がある。

著名な初演
1869: 『ドン・キホーテ』− 振付:マリウス・プティパ、作曲:レオン・ミンクス
1877: 『白鳥の湖』 ー 振付:ヴェンツェル・ライジンガー、作曲:ピョートル・チャイコフスキー
1945: 『シンデレラ』 ー 振付:ロスチスラフ・ザハロフ、作曲:セルゲイ・プロコフィエフ
1954: 『石の花』 ー 振付:レオニード・ラヴロフスキー、作曲:セルゲイ・プロコフィエフ
過去に在籍した著名なダンサー
レオニード・マシーン
ガリーナ・ウラノワ
マイヤ・プリセツカヤ
エカテリーナ・マクシーモワ
ウラジーミル・ワシーリエフ
アレクセイ・ファジェーチェフ
リュドミラ・セメニャカ
アレクサンドル・ゴドゥノフ
イレク・ムハメドフ
ニーナ・アナニアシヴィリ
所属ダンサー
マリヤ・アレクサンドロワ(Мария Александрова)
マリヤ・アラシュ(Мария Аллаш)
アンナ・アントニーチェワ(Анна Антоничева)
ナデジダ・グラチョーワ(Надежда Грачева)
スヴェトラーナ・ザハーロワ(Светлана Захарова)
スヴェトラーナ・ルンキナ(Светлана Лунькина)
ナタリヤ・オシポワ(Наталья Осипова)
マリアンナ・ルイシュキナ(Марианна Рыжкина)
ガリーナ・ステパネンコ(Галина Степаненко)
ドミトリー・ベロゴロフツェフ(Дмитрий Белоголовцев)
イワン・ワシーリエフ(Иван Васильев)
アレクサンドル・ヴォルチコフ(Александр Волчков)
ドミトリー・グダーノフ(Дмитрий Гуданов)
ユーリー・クレフツォフ(Юрий Клевцов)
ミハイル・ロブーヒン(Михаил Лобухин)
ウラジーミル・ネポロジニー(Владимир Непорожний)
ルスラン・スクヴォルツォフ(Руслан Скворцов)
アンドレイ・ウヴァーロフ(Андрей Уваров)
ニコライ・ツィスカリーゼ(Николай Цискаридзе)

ボリショイ劇場の夜景 現状
2005年7月1日からボリショイ劇場本館は老朽化の進んだホールを修復するため閉鎖され、6年の歳月と200億ルーブル(現在のレートで約470億円)以上を投入し大規模改修が行なわれた。この間、本館におけるバレエ、オペラは上演が中止され、ボリショイ劇場新館と、クレムリンのクレムリン大会宮殿などで行われた。2011年10月28日、再開。バレエのこけら落とし公演はチャイコフスキーの「眠れる森の美女」が予定されている。

その他のボリショイ劇場
サンクトペテルブルクのボリショイ劇場

ロシア帝国時代の首都サンクトペテルブルクにあった帝室劇場。区別するために、ボリショイ・カーメンヌイ劇場 (ru:Большой Каменный театр)と記述することが多い。
歴代音楽監督
1936年−1942年: サムイル・サモスード
1943年−1948年: アリ・パゾフスキー (Ari Pazovsky)
1948年−1953年: ニコライ・ゴロワノフ
1953年−1963年: アレクサンドル・メリク=パシャーエフ
1963年−1965年: エフゲニー・スヴェトラーノフ
1965年−1970年: ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー
1970年−1985年: ユーリ・シモノフ
1987年−1995年: アレクサンドル・ラザレフ
1995年−1998年: ペーテル・フェラネツ
1998年−2000年: マルク・エルムレル
2000年−2001年: ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー
2001年−2009年: アレクサンドル・ヴェデルニコフ
2010年−現在: ヴァシリー・シナイスキー

★眠れる森の美女Спящая красавица


英国スコティッシュ・バレエ団による 『眠れる森の美女』
プティパ版
構成 序章つき3幕
振付 M・プティパ
作曲 P・チャイコフスキー
台本 M・プティパ
I・フセヴォロシスキー
美術 M・ボチャローフ[1]、K・イワノフ
I・アンドレエフ、M・シシコフ
H・レヴォト[2]、I・フセヴォロシスキー
初演 1890年1月15日
マリインスキー劇場
主な初演者 【オーロラ姫】 C・ブリアンツァ
【デジレ王子】 P・ゲルト
【リラの精】  マリー・プティパ
【カラボス】  E・チェケッティ
ポータル 舞台芸術
ポータル クラシック音楽
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『眠れる森の美女』(ねむれるもりのびじょ、露(原題): Спящая красавица)はピョートル・チャイコフスキーの作曲したバレエ音楽(作品66)、およびその音楽を用いたバレエ作品。クラシック・バレエ作品の最も有名なものの1つに数えられる。

ロシア語や英語の題は忠実に翻訳すれば『眠れる美女』であり、また日本語では『眠りの森の美女』とも訳される。台本はシャルル・ペローのおとぎ話『眠れる森の美女』(仏語:La Belle au bois dormant)に着想を得て書かれた。チャイコフスキーのバレエ音楽の中で最も演奏時間が長く、全曲を通した上演には普及している縮小版でも優に2時間を要し、原型に基づく上演の場合、上演時間は4時間に及ぶ。

作品の経緯
サンクトペテルブルクの帝室劇場総裁イワン・フセヴォロシスキーがチャイコフスキーに、ペローのおとぎ話『眠れる森の美女』に基づくバレエの音楽が欲しい、と手紙を書いたのは1888年5月13日(ユリウス暦。新暦では5月25日)のことだった。それまでチャイコフスキーのバレエ音楽の作曲の経験は『白鳥の湖』だけであり、しかもライジンガーやハンセンが振付けてモスクワのボリショイ劇場で初演したバレエ『白鳥の湖』は、当時ほとんど歓迎されることのない作品となっていた。その後8月22日にやっと台本を手にしたチャイコフスキーは、ためらうことなく新作バレエの作曲を引き受けた。『眠れる森の美女』の作曲に当たってチャイコフスキーが取り組んだ台本は、ペローの童話を基にフセヴォロジスキーが書き下ろしたものとされている。王女の両親(国王と王妃)が娘の100年の眠りを生き長らえて、眠りから覚めた姫の晴れの婚礼を見届けるという部分や、王子のキスで目覚める部分などはグリム童話の「いばら姫」に近いが、フセヴォロシスキーはペローやオーノワ夫人などフランスの童話のいくつかの話も台本に取り入れた。ともあれチャイコフスキーはフセヴォロシスキーに、この台本を読んで大いに感動し、それを最高に生かす良い着想を得たことを嬉々として伝えた。

振付を担当したのは、ロシア帝室バレエの比類ないバレエマスター(振付・演出家)マリウス・プティパであった。プティパは作曲に必要な指示を詳細に書き、その指示に従ってチャイコフスキーはこの新作を、フロロスコエの自宅ですばやく書き上げた。1888年の冬に草稿に着手し、オーケストレーションを開始したのは1889年5月30日であった。

作品の焦点は、明らかに善の力(リラの精に象徴される)と悪の力(カラボスに象徴される)との葛藤に置かれており、それぞれを表すライトモチーフが話の筋を強調する重要な撚り糸として機能しながら、バレエ音楽全体を貫いている。しかしながら第3幕では、その2つのライトモチーフはすっかり息を潜めて、その代わりに様々な宮廷舞曲の1つ1つの性格に力点が置かれる。なぜ2つのライトモチーフが第3幕で息を潜めるのかは昨今の縮小版バレエでは分からないが、原作を見ればその意味がわかる。

アレクサンドル3世は皇族をつれてゲネプロ当日にこれを観覧し、立ち去り際に、たった一言「とてもいい」と言い残した。チャイコフスキーは、もっと好意的な反応を期待していたので、その言葉に苛立ったという。

初演は1890年1月15日(新暦)にマリインスキー劇場において行われ、『白鳥の湖』よりも好意的な評価を報道された。だがチャイコフスキーは、この作品が海外の劇場で大ヒットする栄光の瞬間を味わうことはできなかった。

チャイコフスキーは1893年に他界する。それから10年後の1903年までに、『眠れる森の美女』は帝室劇場で1番人気のチェザーレ・プーニ作曲・プティパ振付の『ファラオの娘』に次ぐ地位を得た。サンクトペテルブルクで活躍したイタリア人バレリーナが帰国して行ったミラノ・スカラ座における上演はまるで人口に膾炙せず、『眠れる森の美女』が国際的に古典的なレパートリーとして不朽の地位を射止めたのは、ようやく1921年のロンドン公演においてであった。ただし、それはチャイコフスキーとプティパが作った『眠れる森の美女』を基にしながらも異なる部分があり、また、ロシアにおいても革命・ソ連時代を経て異なるものに変わっていった。原作がどういうものであったのかが分かったのは、1999年4月30日、ロシア、サンクトペテルブルクのマリインスキー・バレエが復原版を上演したときのことである。

あらすじ
プティパ版『眠れる森の美女』、サンクトペテルブルク、1890年。第3幕の衣装をつけたオーロラ姫(カルロッタ・ブリアンツァ)とデジレ王子(パヴェル・ゲルト) プロローグ [編集]フロレスタン14世の娘、オーロラ姫の誕生により、盛大な洗礼の式典が行われている。6人の妖精たちの一行が招待を受けて、彼女の名付け親となるべくやってくる。夾竹桃の精、三色ヒルガオの精、パンくずの精、歌うカナリアの精、激しさの精、そして一番偉い善の精、リラの精である。まず国王が妖精たちに贈り物をし、妖精たちがそれぞれオーロラ姫に授け物をする(正直さ、優雅さ、繁栄、美声、および寛大さなどを授けた、とする改訂版もある)。

その時、邪悪な妖精カラボスがやってくる。カラボスは自分が洗礼に招待されなかったことに怒り狂い、オーロラ姫に次のような呪いをかける。

「オーロラ姫は、20回目(改訂版では16回目)の誕生日に彼女の指を刺して、死ぬでしょう。」

しかし幸運にも、リラの精だけはまだ姫に何も授けていなかったため、次のように宣言する。

「カラボスの呪いの力は強すぎて、完全に取り払うことはできません。したがって姫は指を刺すでしょうが、死ぬことはありません。100年間の眠りについたあと、いつか王子様がやってきて、彼の口づけによって目を覚ますでしょう。」

第1幕
オーロラ姫はすくすくと成長し、20歳(16歳)の誕生日を迎えた。その誕生日に編み物をしている娘たちを見て国王は激怒する。オーロラ姫を守るために編み物・縫い物は禁止していたためだ。めでたい祝いの日なので国王は怒りを鎮めて祝宴を始める。

オーロラ姫には4人の求婚者がおり、彼らがバラを姫に手渡したそのすぐ後、姫は何者かからつむを贈られる。彼女は尖ったものに気をつけるようにという両親の忠告にも関わらず、それを持ったまま楽しそうに踊る。そして誤って指を刺してしまう。

カラボスは、すぐに邪悪な本性を明かしながら、勝ち誇り、驚く賓客の前で姿を消す。同時にリラの精が約束通りやってきて、王と王妃、そして賓客たちに、オーロラ姫は死ぬのではなく眠りにつくのだということを思い出させる。リラの精は城にいた全員に眠りの魔法をかける。オーロラ姫が目覚めるその時に、目を覚ますように、と。

第2幕
それから100年が経った頃、デジレ王子が一行を率いて狩りを行っていた。王子は狩りが楽しくなかったため、1人になりたいと申し出て、一行から離れる。そこに突然リラの精が現れて、オーロラ姫の幻を見せられた王子はその美しさの虜となる。王子はリラの精にオーロラ姫の元へ連れて行くよう頼み込み、今や太いツルが伸び放題でからみついている城にたどり着く。リラの精はオーロラ姫の名づけ親だが、デジレ王子の名付け親でもあった。

王子は城の中に入り、中で眠っているオーロラ姫を発見し、王子のキスによってオーロラ姫は目を覚ます(原作は非暴力的で愛すること・考えることを重視するが、改訂版では邪悪なカラボスを打ち負かす、といった展開もある)。彼女が目を覚ましたため、城にいた全員が目を覚ます。王子は姫への愛を告白し、結婚を申し込む。


A・アンサネッリとD・マッカテリが演ずるオーロラ姫・フロリムント王子 (ロイヤル・バレエ団) 第3幕 [編集]婚礼の仕度は整った。祝祭の日にさまざまな妖精たちが招かれている。結婚を祝福するのは、金の精、銀の精、サファイアの精、ダイヤモンドの精である。リラの精もカラボスも出席している。「長靴をはいた猫」や「白猫」などのおとぎ話の主人公たちも来賓として居合わせている。

華麗なダンスが次々に踊られる。4人の(宝石・貴金属の)妖精のパ・ド・カトル、2匹の猫のダンス、青い鳥とフロリナ王女のパ・ド・ドゥ、赤ずきんちゃんとおおかみの踊り、シンデレラ姫とフォルチュネ王子のダンスが披露され、(一般的には省略されるサラバンドの後を受けて、)オーロラ姫とデジレ王子のパ・ド・ドゥが続き、最後にマズルカで締め括られる。オーロラ姫と王子は結婚し、(リラの精が2人を祝福する、という改訂版もあるが、原作では)妖精たちを讃えるアポテオーズの中で人々は妖精たちに感謝を表し、リラの精やカラボスなどの妖精たちが人々を見守るうちにバレエは終わる。

音楽
楽器編成 [編集]ピッコロ、フルート2、オーボエ2、コーラングレ、クラリネット2、、ファゴット2、ホルン4、コルネット2、トランペット2、トロンボーン3、チューバ、ティンパニ、大太鼓、小太鼓、タンブリン、シンバル、タムタム、トライアングル、グロッケンシュピール、ピアノ、ハープ、弦五部

楽曲構成
以下は初演時の台本に基づく。台本はフランス語で記されている。

プロローグ「オーロラ姫の洗礼」(Prologue, Le baptême de la Psse. Aurore)
1-a 序奏 (Introduction)
1-b 広間の行進曲 (Marche de salon)
2-a 妖精の入場 (Entrée des fées)
2-b おどりの情景 (Scène dansante)
3 グラン・パ・アンサンブル (Grand pas ensemble)(「パ・ド・シス」(Pas de six)としても知られる)
a) 甘美なアダージョ、短いアレグロ (Grand adage suave. Petit allégro)
b) ヴァリアシオン - 夾竹桃の精 (Variation - Candide)
c) ヴァリアシオン - 流麗に、三色ヒルガオの精 (Variation - Coulante - Fleur de farine)
d) ヴァリアシオン - パンくずの精 - こぼれ落ちて (Variation - Miettes - qui tombent)
e) ヴァリアシオン - カナリアの精 - 歌って(Variation - Canari - qui chante)
f) ヴァリアシオン - 激しさの精 - 奔放に(Variation - Violente - échevelée)
g) ヴァリアシオン - リラの精 - 扇情的に(Variation - La Fee des lilas - voluptueuse)
h) 全員のコーダ (Coda générale)
4 終曲 (Scène finale)
a) カラボスの入場 (Entrée de Carabosse)
b) カラボスのマイム (Scène mimique de Carabosse)
c) リラの精のマイム (Scène mimique de la Fée des lilas)
第1幕「オーロラ姫の4人の求婚者」 (Act I, Les quatre fiancés de la Psse. Aurore)

初演時のキャスト、第1幕の衣装にて5-a 序奏 (Introduction)
5-b 編み物をする女たちの情景 (Scène des tricoteuses)
6 村人の大ワルツ(別名「ガーランド・ワルツ」) (Grande valse villageoise, a.k.a. The Garland Waltz)
7 オーロラ姫の入場 (Entrée d'Aurore )
8 グラン・パ・ダクション (Grand pas d'action)
a) バラのアダージョ (Grand adage à la rose) - プティパの依頼により冒頭部のハープのカデンツァを拡大
b) 女官と小姓達の踊り (Danse des demoiselles d'honneur et des pages)
c) オーロラ姫のヴァリアシオン (Variation d'Aurore) - プティパの依頼により末尾を改変
d) コーダ (Coda)
9 終曲 (Scène finale)
a) つむをもったオーロラ姫のおどり (La danse d'Aurore avec de fuseau)
b) 呪文 (Le charme)
c) リラの精の到着 (L'arrivée de la Fée des lilas)
第2幕第1場「デジレ王子の狩」 (Act II (scene I), La chasse du Prince Désiré)
10-a 間奏曲 (Entr'acte)
10-b 王子の狩の情景 (Scène de la chasse royale)
11 目隠し鬼ごっこ (Colin-maillard)
12 貴婦人たちのおどり (Danses des demoiselles nobles)
a) 情景 (Scène)
b) 公爵夫人の踊り (Danse des Duchesses)
c) 男爵夫人の踊り (Danse des Baronnes) - プティパにより初演時カット
d) 伯爵夫人の踊り (Danse des Comtesses) - プティパにより初演時カット
e) 侯爵夫人の踊り (Danse des Marquises) - プティパにより初演時カット
13 コーダ、ファランドール (Coda - Farandole)
14-a 情景と狩人たちの出発 (Scène et départ des chasseurs)
14-b リラの精の入場 (Entrée du Fée des lilas)
15 パ・ダクション (Pas d'action)
a) オーロラ姫の幻の入場 (Entrée de l'apparition d'Aurore)
b) 甘美なアダージョ (Grand adage suave) - プティパの依頼により冒頭部のハープのカデンツァを拡大
c) ニンフのワルツ - コケティッシュな短いアレグロ (Valse des nymphes – Petit allégro coquet)
挿入曲:リッカルド・ドリーゴによる4小節のつなぎ
挿入曲:ブリアンツァ嬢のヴァリアシオン(no. 23-b の金の精のヴァリアシオン)
c) オーロラ姫のヴァリアシオン (Variation d'Aurore) - プティパにより初演時カット
d) 小コーダ (Petite coda)
16 情景 (Scène)
17 パノラマ (Panorama)
挿入曲:チャイコフスキーによるno. 19への3小節のつなぎ(no. 18は初演時カットのため)
18 交響的間奏曲 (Entr'acte symphonique) - プティパにより初演時カット
第2幕第2場「眠れる森の美女の城」 (Act II (scene II), Le château de la belle au bois dormant)
19 眠りの城の情景 (Scène du château de sommeil)
20 情景と終曲 - オーロラ姫の目覚め (Scène et final – Le réveil d'Aurore)
第3幕「デジレ王子とオーロラ姫の結婚式」 (Act III, Les Noces de Désiré et d'Aurore)
21行進曲 (Marche)
22 グラン・ポロネーズ(別名「おとぎ話の人物たちの行列」 (Grand polonaise dansée, a.k.a. The Procession of the Fairy Tales)
グラン・ディヴェルティスマン (Grand divertissement)
23 パ・ドゥ・カトル (Pas de quatre)
a) 入場 (Entrée)
b) 金の精のヴァリアシオン ( Variation de la fée-Or) - 初演時はプティパによりブリアンツァ嬢のヴァリアシオンとして第2幕に移動
c) 銀の精のヴァリアシオン (Variation de la fée-Argent) - 初演時はプティパにより「金・銀・サファイアの精のパ・ドゥ・トロワ」 (Pas de trois pour la Fées d'Or, d'Argent et de Saphir) に変更
d) サファイアの精のヴァリアシオン (Variation de la fée-Saphir) - プティパにより初演時はカット
e) ダイヤモンドの精のヴァリアシオン (Variation de la fée-Diamant)
f) コーダ (Coda)
挿入曲:猫の入場(チャイコフスキーによる10小節の序奏)
24 パ・ドゥ・カラクテール - 長靴をはいた猫と白い猫 (Pas de caractère – Le Chat botté et la Chatte blanche)
25 パ・ドゥ・カトル (Pas de quatre) - 初演時はプティパにより「青い鳥とフロリーネ姫のパ・ドゥ・ドゥ」に変更
a) 入場 (Entrée)
b) シンデレラとフォルチュネ王子のヴァリアシオン (Variation de Cendrillon et Prince Fortuné) - 初演時はプティパにより「青い鳥のヴァリアシオン」に変更
c) 青い鳥とフロリーネ姫のヴァリアシオン (Variation de l'Oiseau bleu la Princesse Florine) - 初演時はプティパにより「フロリーネ姫のヴァリアシオン」に変更
d) コーダ (Coda)
26 パ・ドゥ・カラクテール - 赤ずきんと狼 (Pas de caractère – Chaperon Rouge et le Loup)
挿入曲:パ・ドゥ・カラクテール - シンデレラとフォルチュネ王子
27 ベリー人のおどり - 親指小僧とその兄弟と人食い鬼 (Pas berrichon – Le Petit Poucet, ses frères et l'Ogre)
28 グラン・パ・ド・ドゥ・クラシック (Grand pas de deux classique)
a) 入場 (Entrée)
b) アダージョ (Grand adage)
c) デジレ王子のヴァリアシオン (Variation du Prince Désiré)
d) オーロラ姫のヴァリアシオン (Variation d'Aurore) - プティパの依頼により初演時はリッカルド・ドリーゴにより編曲
e) コーダ (Coda)
29 サラバンド - トルコ人、エチオピア人、アフリカ人とアメリカ人のカドリーユ (Sarabande – quadrille pour Turcs, Éthiopiens, Africains et Américains)
30-a 全員のコーダ (Coda générale)
30-b アポテオーズ - ルイ14世の姿をしたアポロン、妖精に囲まれた太陽の光によって輝いている (Apothéose – Apollon en costume de Louis XIV, éclairé par le soleil entouré des fées)
改作
オーロラ姫の結婚(ディアギレフ版)
1922年にセルゲイ・ディアギレフは、自前のバレエ団バレエ・リュスのために、『眠れる森の美女』を45分の長さに短縮し、『オーロラ姫の結婚』と名付けた独自の版を編み出した。この編曲では、第1幕の導入部と、第3幕のほとんどを結び付け、その他の部分を混ぜたものとなっている。この短縮版は、レオポルド・ストコフスキーによって上演・録音されており、デジタル録音ではシャルル・デュトワ指揮の録音がある。楽曲の配列は以下の通りである。

1.序奏(プロローグ) Introduction (Prologue)
2.ポラッカ Polacca (Act 3)
3.パ・ド・シス Pas de Six (Prologue)
4.情景 - 公爵夫人の踊り - 侯爵夫人の踊り Scene; Danse des Duchesses; Danse des Marquises (Act 2)
5.ファランドール:舞曲 - テンポ・ディ・マズルカ Farandole; Danse - Tempo di Mazurka (Act 2)
6.パ・ド・カトル Pas de Quatre (Act 3)
7.パ・ド・カラクテール - 赤ずきんと狼 Pas de Caractere-Chaperone Rouge et la Loup (Act 3)
8.パ・ド・カトル Pas de Quatre (Act 3)
9.コーダ - 3人のイヴァン Coda-The Three Ivans (Act 3)
10.パ・ド・ドゥ Pas de Deux (Act 3)
11.フィナーレ - テンポ・ディ・マズルカ - アポテオーズ Finale - Tempo di Mazurka; Apotheose (Act 3)
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2011年10月25日

ロシア・バレエ、オペラの殿堂ボリショイ劇場、6年越し修復完了

甦る帝政期の輝き ボリショイ劇場、6年越し修復完了 ロシア・バレエ、オペラの殿堂

 ロシア・バレエとオペラの殿堂、国立ボリショイ劇場本館の約6年間にわたる大規模修復工事が終了し、25日までに内部が記者団に公開された。修復によって現在の同劇場が開館した19世紀当時の内装が蘇った一方、舞台装置などにはさまざまな新技術が取り入れられている。

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 ボリショイ劇場は火災による消失を経て帝政期の1856年に再建された。ソ連時代には共産党大会など政治目的にも使用され、ホール内ではセメントやベニヤ板を無造作に使った補修が行われて音響の質も低下した経緯がある。建物の老朽化も進んでいたため、2005年7月から大規模修復が行われていた。

 ホールやロビーの修復では壁画やシャンデリアなど細部にいたるまで19世紀当時を復元することが主眼とされ、約1千人の専門家を投入。また、舞台には7面の可動方式が導入されて多様な演出に対応できるようになったほか、地下にはリハーサル・ホールなどが新設された。

 今回の修復では工期が予定の2倍に延びたほか、総工費も当初計画の16倍となる200億ルーブル(約500億円)以上に膨らんだ。09年には巨額の使途不明金があるとして検察当局が捜査に乗り出す醜聞もあった。

 劇場本館は28日、メドベージェフ大統領らの出席する特別コンサートで再オープンし、11月2日にはグリンカ作曲のオペラ「ルスランとリュドミラ」で一般客を迎える。



◆19世紀の装飾復元 ボリショイ劇場、再オープンへ

 ロシアのバレエとオペラの殿堂、ボリショイ劇場の6年以上にわたる修復工事が終わり8日、内部が報道陣に公開された。28日の記念コンサートで再オープンする。19世紀のロシア帝国時代に建設された当時の装飾がよみがえった。

 モスクワにボリショイ劇場が開館したのは1825年。53年の火災で損傷した後、56年に再建された。

 メーンの観劇ホールは、ルネサンス調にビザンチン様式の交じった当時の輝きを再現。重さ260キロの巨大シャンデリアは2万個のカットガラスからなり、壁面には合計4.5キロの金箔(きんぱく)を張り巡らせた。

◆よみがえる19世紀のロマノフ王朝の輝き――。

2005年から修復工事が続くロシア舞台芸術の殿堂、モスクワのボリショイ劇場で1日、内部の仕上げ作業がメディアに公開された。ミューズ(女神)やアポロン(太陽神)が描かれた天井画はほぼ完成し、観客席の装飾に黄金色を復元する手作業も進む。1856年の開館当時の姿が浮かび上がってきた。劇場の再開は今年秋に予定されている。

 工事担当者によると、全面的な大改修は115年ぶり。ソ連の国章がはずされてロマノフ家の紋章が復活し、幕のソ連国章もロシアの国章に替わる。かつて共産党大会の会場にも使われて2100以上に増やされた座席数は、開館当初よりやや少ない1728に減らされる。ソ連色が消されるのも一つの特徴だ。

 金箔(きんぱく)を施す作業には150人以上の職人が必要で、各地から集められた。ロシア南部ロストフ州から来たオレクさん(32)は普段はロシア正教の教会で修復をしているが、「ボリショイの歴史的修復に関われて光栄だ」と語る。金箔を施す面積は全体で983平方メートルという。

★ボリショイ劇場 (露: Большой театр、英: Bolshoi Theatre、正式名称: 国立アカデミー・ボリショイ劇場 〔Государственный академический Большой театр России[1]〕) は、ロシアのモスクワにある劇場。ロシアを代表するバレエ、オペラ劇場(歌劇場)である。「ボリショイ」とはロシア語で「大きい」を意味し、単純には「大劇場」。ロシア国内のいくつかの都市には複数の劇場が存在し、大きなものをボリショイ劇場と呼び、小さいものをマールイ劇場と呼ぶ慣習がある。ロシア国外では、一般に「ボリショイ劇場」と言った場合はモスクワのボリショイ劇場を指す。



沿革

帝政時代 (1856年)1776年ピョートル・ウルソフ(Petr Urussov)公爵とマイケル・マドックス(Michael Maddox)によって、ウルソフ公爵邸でオペラやバレエ、ドラマの上演が行われたことがボリショイ劇場の起源であるとされる。その後1780年モスクワ・モホヴァヤ通りのパシュコーフ邸を得て、ペトロフカ劇場(Petrovka Theatre またはペトロフスキー劇場)を専属の劇場とする。この劇場で演劇とオペラを制作・発表するようになった。

やがて帝室劇場の管理下に置かれるが、現在のボリショイ劇場の建物を得るまで計3回の火災に見舞われる。1805年の火災でアルバート通りの新アルバート帝国劇場に移転するものの、この劇場も1812年ナポレオンのモスクワ侵攻の際、モスクワ大火で焼失した。


ソ連時代 (1932年2月)1825年現在のテアトラーリナヤ広場(Teatralnaya Square 劇場広場)の敷地にA.ミハイロフ、オシップ(イオアン)・イワノヴィッチ・ボヴェ(Osip Ivanovich Bove)の設計のもと、建設された。尚、これに先立つ1824年ボヴェは、マールイ劇場(「小さい劇場」の意)を建設している。ボリショイ劇場は1825年1月18日落成し、当初、ロシアの作品のみを上演し、外国人の曲目、作品が上演されるようになるのは1840年を待たなければならなかった。しかしこのロシア古典主義様式に基づく劇場も1853年に火災に遭い、甚大な被害を受けた。1856年アリベルト(アルベルト)・カヴォス(Albert Kavos, オペラ作曲家カテリーノ・カヴォス(Caterino Kavos)の息子)によって焼け残った正面列柱と壁面を生かして改修工事が行われた結果、現在の劇場が完成した。また、この改修工事の際に正面破風の上に彫刻家P.クロットによる太陽神アポロンの四頭立て馬車(クァドリーガ)の彫刻に換えられた。

独ソ戦で劇場はドイツ軍の攻撃により被害を受けたが、すぐに修繕されている。ボリショイ劇場の施設は、観客席数6層2150席をホールに有する。2002年11月に1000人を収容できる小劇場(ボリショイ劇場新館)が建設された。

オペラとボリショイ・バレエ

ボリショイ劇場の内部ボリショイ劇場は管弦楽団とバレエ団を有している。ボリショイ劇場におけるオペラとバレエは、19世紀のロシア帝国の強大化を背景に、国民楽派の隆盛や西ヨーロッパのバレエ作品の上演によって西欧に比肩するものに成長していった。ただしバレエについては、帝政時代には、宮廷のあるサンクトペテルブルクのマリインスキー劇場に遅れをとらざるを得なかった。ボリショイ劇場が名実ともに世界にロシアを代表する歌劇場となる転機となったのがロシア革命である。ボリショイ劇場はソ連政府の国立劇場となり、全面的な援助、後援(それにともなう統制も含むが)を受けることとなる。

オペラ
ボリショイ劇場ではロシアを代表する大作曲家のオペラ、楽曲が公演されてきた。特に19世紀から20世紀にかけて、国民楽派の勃興、グリンカ、ロシア5人組に代表される音楽家の出現によって彼らの手になるオペラの上演が行われた。また、チャイコフスキーは、交響的バラード 作品78 「地方長官 (Voyevode)」 をラフマニノフはオペラ 『アレコ』、『フランチェスカ・ダ・リミニ』 をボリショイ劇場で公演している。さらにこうしたオペラを後押ししたのが、ボリショイ劇場所属の歌手たちで、フョードル・シャリアピンを筆頭に名歌手の演技が評価されることとなった。


ボリショイ・バレエ団による 『白鳥の湖』 (2006年) ボリショイ・バレエ
ボリショイ・バレエは、モスクワのボリショイ劇場を本拠地とするバレエ団であり、サンクトペテルブルクのマリインスキー・バレエとともにロシアを代表するバレエ団である。チャイコフスキーのバレエ 『白鳥の湖』 は、1877年にボリショイ劇場で初公演が行われた。ソビエト連邦時代にはバレエ団が数百あったといわれるバレエ大国において、バレエ界を牽引する中心的な役割を担ってきた。

マリインスキー劇場は宮廷を起源とし、王族・皇族の庇護のもと貴族階級を対象にした劇場であったのに対し、ボリショイ劇場は、地元の名士(公爵)が開設し裕福な商人階級向けに発展を遂げてきた。1902年ボリショイ・バレエ団長に就任したアレクサンドル・ゴルスキーは、ボリショイ劇場でのバレエ演目を増やすとともに、演劇改革運動に触発され、バレエの世界に新風をもたらした。

ロシア革命後は、レニングラード(現サンクトペテルブルク)からモスクワへの遷都と、ソ連政府によって最も重要な国立劇場として位置づけられたことに伴い、マリインスキー劇場からバレエ関係者(教育者、振付師、ダンサーなど)が次第にボリショイ劇場へと活躍の場を移していった。こうした人材の流入によって新たな作品と後進が育成された。第二次世界大戦後は、スターリンによってマリインスキー劇場から移籍したガリーナ・ウラノワの活躍や、スターリンの死後1950年代後半から始まった国外公演によってボリショイ・バレエの名声は国際的なものへと成長した。

ボリショイ・バレエのレパートリーは、チャイコフスキーの三大バレエ(『白鳥の湖』 『眠れる森の美女』 『くるみ割り人形』)、ハチャトゥリアンの 『スパルタクス』 をはじめ、古典、新作など多岐にわたる。ソ連崩壊後は、言論統制がなくなり西ヨーロッパ諸国の作品も上演するようになった。

なおボリショイ・バレエには支部としてブラジル南部の都市、ジョインヴィレにボリショイ劇場学校がある。

著名な初演
1869: 『ドン・キホーテ』− 振付:マリウス・プティパ、作曲:レオン・ミンクス
1877: 『白鳥の湖』 ー 振付:ヴェンツェル・ライジンガー、作曲:ピョートル・チャイコフスキー
1945: 『シンデレラ』 ー 振付:ロスチスラフ・ザハロフ、作曲:セルゲイ・プロコフィエフ
1954: 『石の花』 ー 振付:レオニード・ラヴロフスキー、作曲:セルゲイ・プロコフィエフ
過去に在籍した著名なダンサー
レオニード・マシーン
ガリーナ・ウラノワ
マイヤ・プリセツカヤ
エカテリーナ・マクシーモワ
ウラジーミル・ワシーリエフ
アレクセイ・ファジェーチェフ
リュドミラ・セメニャカ
アレクサンドル・ゴドゥノフ
イレク・ムハメドフ
ニーナ・アナニアシヴィリ
所属ダンサー
マリヤ・アレクサンドロワ(Мария Александрова)
マリヤ・アラシュ(Мария Аллаш)
アンナ・アントニーチェワ(Анна Антоничева)
ナデジダ・グラチョーワ(Надежда Грачева)
スヴェトラーナ・ザハーロワ(Светлана Захарова)
スヴェトラーナ・ルンキナ(Светлана Лунькина)
ナタリヤ・オシポワ(Наталья Осипова)
マリアンナ・ルイシュキナ(Марианна Рыжкина)
ガリーナ・ステパネンコ(Галина Степаненко)
ドミトリー・ベロゴロフツェフ(Дмитрий Белоголовцев)
イワン・ワシーリエフ(Иван Васильев)
アレクサンドル・ヴォルチコフ(Александр Волчков)
ドミトリー・グダーノフ(Дмитрий Гуданов)
ユーリー・クレフツォフ(Юрий Клевцов)
ミハイル・ロブーヒン(Михаил Лобухин)
ウラジーミル・ネポロジニー(Владимир Непорожний)
ルスラン・スクヴォルツォフ(Руслан Скворцов)
アンドレイ・ウヴァーロフ(Андрей Уваров)
ニコライ・ツィスカリーゼ(Николай Цискаридзе)

ボリショイ劇場の夜景 現状 [編集]2005年7月1日からボリショイ劇場本館は老朽化の進んだホールを修復するため閉鎖され、6年の歳月と200億ルーブル(現在のレートで約470億円)以上を投入し大規模改修が行なわれた。この間、本館におけるバレエ、オペラは上演が中止され、ボリショイ劇場新館と、クレムリンのクレムリン大会宮殿などで行われた。2011年10月28日、再開。バレエのこけら落とし公演はチャイコフスキーの「眠れる森の美女」が予定されている。

その他のボリショイ劇場
サンクトペテルブルクのボリショイ劇場

ロシア帝国時代の首都サンクトペテルブルクにあった帝室劇場。区別するために、ボリショイ・カーメンヌイ劇場 (ru:Большой Каменный театр)と記述することが多い。
歴代音楽監督
1936年−1942年: サムイル・サモスード
1943年−1948年: アリ・パゾフスキー (Ari Pazovsky)
1948年−1953年: ニコライ・ゴロワノフ
1953年−1963年: アレクサンドル・メリク=パシャーエフ
1963年−1965年: エフゲニー・スヴェトラーノフ
1965年−1970年: ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー
1970年−1985年: ユーリ・シモノフ
1987年−1995年: アレクサンドル・ラザレフ
1995年−1998年: ペーテル・フェラネツ
1998年−2000年: マルク・エルムレル
2000年−2001年: ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー
2001年−2009年: アレクサンドル・ヴェデルニコフ
2010年−現在: ヴァシリー・シナイスキー
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2011年10月16日

美しすぎるスイス連邦院の幻想的なイルミネーション!フランスの「Les Allumeurs d'Images」によるパフォーマンス


スイスの首都ベルン(Bern)にある連邦議会と政府の省庁が入居しているスイス連邦院に幻想的な光が投げかけられた。フランスの「Les Allumeurs d'Images」によるパフォーマンスで、11月26日まで毎晩行われる。








★国内の主な公共のイルミネーション・イベント
主な無料の都市・地域イルミネーション・イベント。

日本
都道府県
都市 名称 開始年 期間

北海道 札幌市 さっぽろホワイトイルミネーション 1981年〜 11月中旬
〜2月中旬
会場・時期による
宮城県 仙台市 SENDAI光のページェント 1986年〜 12月12日
〜31日
東京都 渋谷区
港区 表参道イルミネーション 1991年〜
(中断期あり) 12月初旬
〜1月初旬
新潟県 新潟市 NIIGATA光のページェント 1987年〜 12月中旬
〜1月中旬
岐阜県 岐阜市 長良川イルミネーション 2001年〜 12月中旬
〜1月初旬
大阪府 大阪市 OSAKA光のルネサンス 2003年〜 12月中旬
〜下旬
大阪府 大阪市 御堂筋イルミネーション 2008年〜 12月中旬
〜1月中旬
兵庫県 神戸市 神戸ルミナリエ 1995年〜 12月初旬
〜中旬
奈良県 明日香村 飛鳥光の回廊 年〜 9月頃
広島県 広島市 ひろしまドリミネーション 2002年〜 11月中旬
〜1月初旬
香川県 高松市 高松冬のまつり 1987年〜 12月初旬
〜下旬
長崎県 佐世保市 きらきらフェスティバル 1996年〜 11月中旬
〜12月下旬

ギャラリー
札幌の夜のクリスマスイルミネーション(12月12日)
六本木ヒルズ・けやき坂通りのクリスマスイルミネーション
大阪ビジネスパークのイルミネーション
大阪市梅田・ハービスエント
コムズガーデン
三重県津市美里町南長野のイルミネーション
台場メモリアルツリー
カレッタ汐留のBlue Ocean
東京ミッドタウン「MIDTOWN CHRISTMAS」
東京ドームシティ「Super Light City」
スリラー・ファンタジー・ミュージアムのイルミネーション
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2011年09月09日

ドイツのベルリンで夜、ブランデンブルク門を48カ国語の「平和」の文字でライトアップ

48カ国語の「平和」で彩るブランデンブルク門 

ドイツのベルリンで8日夜、ブランデンブルク門を48カ国語の「平和」の文字でライトアップするイベントの公開リハーサルが行われた。首都のシンボルとして知られる門は色とりどりの文字で彩られ、幻想的な雰囲気に包まれた。日本とドイツ(当時はプロイセン)の交流が始まってから150年を祝う記念行事の一環。世界的な照明デザイナー石井幹子さんが演出し、本番は9、10日に行われる
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★ブランデンブルク門 (Brandenburger Tor) はドイツ・ベルリンのシンボルとされている門である。正面部はパリ広場 (Pariser Platz) の東に面しており、ミッテ区に属している。高さは26m、幅は65.5m、奥行きは11mの、砂岩でできた古典主義様式の門である。

1868年に城壁が取り壊されるまでベルリンは星型要塞に囲まれた城郭都市だった。ブランデンブルク門は18箇所あった都城の門のひとつであり、残りの門が城壁の取り壊しとともに姿を消していく中、唯一残されたのがブランデンブルク門である。

現在、城壁や都城の門は跡形もなくなったが、ベルリンには『〜Tor(門)』という地名はそこかしこに残されている。どの地名もその門の先の都市の名前が門の名前になっており、ブランデンブルク門の場合はホーエンツォレルン家(ブランデンブルク辺境伯から、プロイセンの地を得てプロイセン王国の王、ドイツ帝国の皇帝となった)がベルリンに遷都するまで、ブランデンブルク辺境伯国の首都だったブランデンブルクに通ずる道を扼する役割を担っていた。

ブランデンブルク門から東に向かうとウンター・デン・リンデンを経て王宮へとつながっており、プロイセン王族が、ベルリン市外に出てポツダムやティーアガルテンに向かう時には必ずこの門を通過する、ベルリンの正門と言っても過言ではない位置付けだった。

ブランデンブルク門はフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の命により建築家カール・ゴットハルト・ラングハンスによって古代ギリシャ風で設計され、1788年から3年間の建設工事を経て1791年8月6日に竣工している。これといった竣工式も行なわれないまま門は開通、供用に付されたという。

門はアテネのアクロポリスの入り口にあったプロピュライアの門を模した物で、当時ドーリア式円柱だけが残っていたプロピュライアの創建時の姿を想像してそのままベルリンに再現した(実際は三角形の破風がプロピュライアの上にはあったと思われるが、ラングハンスは水平の屋階を載せている)。さらに門の上には、彫刻家ゴットフリート・シャードウが制作した四頭立ての馬車(クアドリガ)に乗った勝利の女神ヴィクトリアの像を乗せた。



ナポレオンとブランデンブルク門もとは平和の勝利を記念する「平和門」としての位置づけであったが、完成直後にナポレオン・ボナパルトによりベルリンは征服されブランデンブルク門はナポレオンのパレードの舞台と化し、ヴィクトリア像はフランスへ戦利品として持ち去られた。

その後のナポレオン戦争によりプロイセン軍がパリを占領すると、ヴィクトリア像は再度ベルリンに持ち帰られ門の上に戻された。門は戦勝と凱旋のシンボルとなり、門のあるカレ広場はパリ広場に改名され、ヴィクトリアの持つ杖には勝利を記念して鉄十字紋章が取り付けられた。門の前は列強の大使館やホテル・アドロンなどの壮麗な建築群が並ぶベルリンの中心地のひとつとなった。


1961年8月13日のブランデンブルク門。この日まで門の下には東西ベルリンを行き交う車や人が通っていたが、この日開始されたベルリンの壁建設により門の周辺は無人地帯となった第二次世界大戦後は東ベルリンに属し、西ベルリンとの境界線がすぐ近くを通ることとなり、門の前にあった廃墟はすべて撤去されて何一つ建物のない無人地帯となった。

ヴィクトリアの持つ杖の先は、社会主義国らしくなるよう平和の象徴であるオリーブの枝に変えられた。それでも門を通っての東西ベルリンの往来は活発だったものの、1961年に東ドイツが国民流出を防ぐためベルリンの境界線を封鎖し、後に「ベルリンの壁」と呼ばれる壁を建設すると、門の前を壁が通る形となったため、門は東ベルリン西端の行き止まりとなり通行できなくなった。

1989年にベルリンの壁が崩壊し、再び門の下を通行できるようになった。ヴィクトリアの持つ杖の先は再び鉄十字に戻り、門は2000年12月から巨額の資金をかけて清掃と改修工事が行われた。周囲では1990年代から2000年代にかけてホテルや大使館などの再建が進み、門はベルリンを代表する観光地となっている。また、ドイツ東西の分離と統合のシンボルとしてドイツのユーロ硬貨の裏面に彫られている。

00Brandenburger_Tor_abends.jpg
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