2012年04月01日

ナイスバディのレースクイーンたちが12F1第2戦マレーシアGPを盛り上げる



マレーシア・セパン(Sepang)で行われた12F1第2戦マレーシアGP(Malaysian Grand Prix 2012)のレースクイーンたち

★レースクィーン









◆レースクイーン(race queen)は、モータースポーツ(自動車、オートバイなどのレース)に参戦する各チームのスポンサーのコンパニオンである。主として20歳前後の女性が就いている。

概要と変遷

元々はレース主催者などに雇われた(選ばれた)数名の女性(例えば鈴鹿サーキットクイーン等)で、優勝者の表彰などレース運営の中で一定のシンボル的役目を担う者を指す言葉だったが、現在ではそれらの女性をサーキットクイーンと呼び、チームに雇われたキャンペーンガール(キャンギャル)をレースクイーンと呼ぶようになっている。また「レースクイーン」という用語は元々英語のPromotional modelのサーキット版というニュアンスで作られた和製英語で、英語では上記の「Promotional model」に加え「Paddock girls」などの名称が用いられている。

レースクイーンの分類としては、純粋にレースクイーンだけを生業とする者がいる一方で、学生やその企業の従業員が兼業で就業することもままある。また、タレントや俳優として名を成した者もしくはグラビアアイドルなどでデビューした後に年契約でレースクイーンを務める、コスプレイヤーやネットアイドルといった「アイドル予備軍」が参入する、など経歴や形態が多様化している。現役女子高生のレースクイーンといった低年齢化も進んでいる。

1999年の男女雇用機会均等法改正に伴い「レースクイーン」の名称が消滅する可能性があったが、回避されている。一方で均等法施行後は「サーキットレディ」という呼称がしばしば使われるようになっており、また中には求人広告に「18歳以上の男女」という表記をしているチームもある。

歴史

1960年代後半に小川ローザらがサーキットでモデルとして活躍したのが起源といわれている。以後その形態にあまり変化はなく、開会式や表彰式のアシスタントとして従事する程度であったが、1984年に開催された日本最高峰のオートバイ耐久レース「鈴鹿8時間耐久ロードレース」で、一部チームのキャンペーンガールがチーム名のロゴマークを入れた水着を着て応援し、話題となった。

1980年代後半のバブル経済絶頂期に入ると、チームやスポンサー企業のロゴが入った極めて布地面積が少ないハイレグ・レオタードを身に纏った女性たちがサーキットに多数出現し、人気を博した。それ以降、このようなスタイルがレースクイーンの主流として定着した。特にオートバイのレーシングチームでキャンペーンガールを務めた飯島直子と岡本夏生の大ブレイクで、レースクイーンはサーキットを飛び出して様々な舞台へと進出するようになっていった。当時は日本以外の国では余り存在しておらず、レースクィーンは日本が発祥の地であると言われている。

現状

現在はレースクイーン専門の芸能事務所が多数あり、その事務所がレースが行われない週末を利用してカメラ小僧向けのアマチュア撮影会を開催し、所属のレースクイーンをモデルとして出演させて収益を得る、といったことが行われている。そのため最近では、レースはスポンサーアピール以上に撮影会の開催の宣伝の場ともなっている(カメラ専門誌の広告にスタジオ主催の撮影会スケジュールが掲載されていることが多い)。

またメディアでは、つくばテレビの『エンタ!371』のほか、『ギャルズパラダイス』・『トップクイーン』など、紙媒体と連動した専門サイトがある。業態が変わって以降のつくばテレビは、レースクイーンの温泉紀行などの企画ものも含め、複数のコンテンツを持つ。

逆に「現役レースクイーン」の肩書き欲しさに、イベントコンパニオン関連の事務所(中でもパチンコ系のイベント会社)やアダルトビデオの制作会社(ソフト・オン・デマンドなど)が自社の資金でレーシングチームのスポンサーとなり、自社のコンパニオンやAV女優をレースクイーンに起用するといった例も見られる。特にAV女優をレースクイーンとしたソフト・オン・デマンドの例(2002年のフォーミュラ・ニッポンで山本清大をスポンサードした)では、当時プレスのみならずレース関係者、一般の観客の間からも激しい批判が起こった。

1990年代後半から、「レースクイーン・キャンギャル情報誌」を名乗る書籍(雑誌、ムック等)が雨後の筍のごとく次々と創刊されたが、『オートスポーツ』別冊として当初スタートした『ギャルズパラダイス』以外は大方ほんの数年で軒並み休刊・廃刊に追いやられている。

国内モータースポーツで一番動員力があるSUPER GT(旧全日本GT選手権)は注目度も高いため、年々レースクイーンの数も増加の一途をたどった。特に2003年には飽和状態が激化し、1レースで200名以上、1台のマシンに10名以上が立つチームも現れたことから、翌2004年以降は競技の進行を円滑に行うため「1台につき4名まで」という制限が主催者より課せられている。さらにシーズン直前には各チームのレースクイーンの着用するコスチュームの審査が行われ、過剰な露出が見られるものに対しては参加を認めない条項を課しており、シーズン中に規定に反する物に変えた場合は当該レースクイーンを外すことも定められている。他に、1シーズン中に参加するレースクイーンは登録しているメンバーのみとし、何らかの理由で人数が欠ける事態があっても欠員補充は原則認めないという規定が定められ、規制も厳しくなっている。

日本国外での状況

韓国、中国でもレーシングガールなるキャンギャルがサーキットに華を添えている。これは明らかに日本のレースクイーンからの影響であり、こちらも芸能界、特に映画女優への登竜門的存在となっている。

欧米では婦人団体などからのクレームが非常に強く、特にテレビ放送があるモータースポーツなどではそもそもチームにキャンペーンガールなどいないことが多い。F1・日本グランプリでもスポンサーのキャンペーンガールがメディアに登場するが、その多くはあくまでコース外のスポンサーブースでの活動であって、ほとんどの場合コース内やパドックには入場すら許されていない。ただしレッドブル・レーシングのように、F1の各グランプリにおいて「フォーミュラ・ウナ」(Formula Una)と題して開催国の美女を集め、パドック内でコンテストを開催するようなチームも存在する。

海外の有名レースでも、レース前のプラカードなどの掲示要員(グリッドガール)や表彰台でのアシスタントとして、サーキット側がキャンペーンガールを用意することは時折あるが、たいていは全員統一された普通のデザインの短パンと軽めのジャケットの組み合わせだったり、場合によっては単なるツナギ姿と、各チームの女性広報スタッフと大差ないことも多い。

モーターショーなどでも同様で、もともとアンダーグラウンド系の文化をフィーチャーした(前述のレッドブル・レーシングの例はこれにあたる)などの特殊な理由でもない限り、本来の商品と関係ない女性の露出度で集客しようとすることはまずない、といわれている。

コスチュームの変遷

コスチュームのデザインは、同じチーム・スポンサーであっても毎年細部を含めて変更されており、その時代の流行が多く反映されている。

1980年代以前

サーキットのイメージガールである、本来のレースクイーンの活躍が見られた時期。

コスチュームはTシャツかタンクトップとホットパンツの組み合わせに、足元はブーツといういでたちが一般的。季節によって、丈の短いジャケットが加わる場合もある。たすきは必携で、時代やサーキットによっては、ミニスカートやティアラも見られる。

まだロングヘアはあまり見られない。

1980年代から1990年代前半

当時のエアロビクスブームの影響から、足ぐりの角度を極端に上げたハイレッグカット(ハイレグ)のワンピース型レオタードが主流となり、これにスポンサー名を直接プリントするか、またはたすきが用いられる。下には海外製を中心とした、ジャズダンス用のマチの見えない光沢のあるストッキングが組み合わされた。また、Tバックタイプのレオタードを着用するレースクイーンも多く見られた。

ピンヒールと大きな傘、そして当時流行の髪形(初期はレイヤー、その後ワンレンやソバージュ)とともに、レースクイーンの象徴的なスタイルとして強い印象を与えた。フェイスメイクは色黒、太眉が主流であった。

1990年代後半

ハイレグ路線から転換し、極端なミニスカートのワンピースが主流となる。スパンデックス素材で作成された体のラインがそのままに出るものから、徐々にエナメル素材(PVC)のものへと変化していった。

ワンピースの利点は布地面積が広いことであり、スポンサーロゴが大きくプリントされ、企業やチームカラーで色とりどりにデザインされた。大きな襟が付いていることも特徴的だった。

ハイレグに代わるセクシーさを求め、大胆なスリットを設けたり、バストの部分をくり抜き、谷間を強調するデザインが現れた。

2000年代初頭

大きな変化としてはワンピースからセパレートタイプへの移行が挙げられる。ウエスト部分を露出したアンダーバストまでの上衣(ホルターネック・チューブトップ・ハーフトップやキャミソールが中心)とミニスカートに、ブーツ(夏季はサンダル)、春や秋には七分袖丈の上着を合わせるというスタイルが主流となった。ワンピース時代と比べスポンサーロゴは小さくなったが、カラーリングの組み合わせが容易になった。

またパンツスタイルも採用されるようになり、長ズボン(スラックス)と短いホットパンツに大別される。この場合もサイドを網状にしたりカッティングしたりするなど大胆な露出が施されていた。

この時期ならではのものに、厚底靴やコギャル風メイクの導入が挙げられる。

2000年代後半

引き続きセパレートタイプが主流となっているが、色や素材の違うパターンを織り込んで縫製された、細部にわたる複雑なデザインのものへと変化している。またショートパンツはローライズタイプが主流となっている。またアクセサリー・帽子・上着もチームによってさまざまに取り入れられている。さらにスポンサーによってはドレスやメイド服、セーラー服など、萌え系コスプレを意識したデザインも登場しており、露出一辺倒からの転換がうかがえる。

見えないところでは、ヌーブラの登場により、それまでのガムテープによる豊胸術が影を潜めた。

◆レースクイーン出身タレント(50音順)

あいざわかおり(相沢かおり)
相澤仁美 - 2005年SUPER GTイメージガール
相沢まき(矢野麻衣子)
赤松寛子
飯島直子
石黒都記子
いけだりか
和泉由希子
池本まいか
インリン・オブ・ジョイトイ
牛川とこ
麻田ユリカ(江口望)
江角マキコ
榎木らん
遠藤賀子
岡本夏生
緒川たまき
綾川ゆんまお - コスプレタレントとして活動中
尾崎由衣(水木由奈)
尾崎亜衣(水木杏奈)
海川ひとみ
柏木美里
桐原エリカ
上村ひな
北山えり
久留須ゆみ
小暮あき
胡喋蘭・エリ
小林恵美
坂井泉水(蒲池幸子)
さくらいゆり
佐藤あずみ
三浦りさ子(設楽りさ子)
杉浦未幸 - 元おニャン子クラブの逆バージョン
杉本彩

鈴木史華
鈴々木保香
須之内美帆子
清野紗耶香(鈴木紗耶香)
相馬茜
高島礼子
高杉さと美
貴村真夕子
田波涼子
千葉麗子
CHAMI
永浜いりあ
菜々緒
並松紀子
西千春(瑞木千春・みずき)
二宮沙樹
浜田翔子
原久美子
原田まりる(原田まり)
古崎瞳
星杏奈(日本最初のレースクィーンといわれている人物)
堀口としみ
三咲舞花
美翔芽里
水谷さくら
三瀬真美子
三井ゆり
室井佑月 - 作家、テレビのコメンテーターとして活躍
守口文子
森下千里
森田香央里
守田奈緒子
諸岡愛美
吉岡美穂
吉川ひとみ
吉永千夏(後藤知恵)
リア・ディゾン
若槻千夏 - 全日本GT選手権イメージガール




その他のレースクイーン出身著名人
井原慶子(カーレーサー)
椎名絵里香(EROTIC Vシネマ女優)
鈴木美穂(ヌードモデル・女優)
月見栞(AV女優)
月城まおら(AV女優)
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2012年03月18日

英キャサリン妃が15日、ロンドンの五輪公園を訪れ、リバーサイドアリーナで英国ホッケーチームとホッケーを楽しむ



英キャサリン妃(Catherine, Duchess of Cambridge)が15日、ロンドン(London)の五輪公園(Olympic Park)を訪れ、リバーサイドアリーナ(Riverside Arena)で英国ホッケーチームとホッケーを楽しんだ。





写真左はホッケーを楽しむキャサリン妃。写真右はその数時間後に、ロンドン南部で英皇太子の慈善団体が開いたイベントを公式訪問するキャサリン妃

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2012年03月08日

故グレース・ケリー(Grace Kelly)公妃の孫にあたるシャルロット・カシラギ公女が、「グッチ(Gucci)」の新たなイメージモデルに就任



モナコ公国のシャルロット・カシラギ(Charlotte Casiraghi)公女が、「グッチ(Gucci)」の新たなイメージモデルに就任する。



 故グレース・ケリー(Grace Kelly)公妃の孫にあたるカシラギ公女は、現在25歳。グッチが後援する馬術競技会「グッチ マスターズ(Gucci Masters)」に障害馬術選手として何度も参加している。「グッチ」が、カシラギ公女のために乗馬用ウェアをデザインしたこともある。

 これまで「グッチ」のイメージモデルには、女優のエヴァン・レイチェル・ウッド(Evan Rachel Wood)やナターシャ・ポーリー(Natasha Poly)が起用されている





「グッチ(GUCCI)」が9月28日、創設の地であるイタリア・フィレンツェのメルカンツィア宮殿(Palazzo della Mercanzia)内にミュージアム「グッチ ミュゼオ(GUCCI MUSEO)」をオープンした。これを記念して26日、隣接するヴェッキオ宮殿にてオープニングイベントが開催された。

 グッチは今年1年を通じて、ブランド創設90周年を記念した様々な取り組みを行ってきた。そのクライマックスとも言うべきこのイベントには、パトリツィオ・ディ・マルコ(Patrizio di Marco)プレジデント兼CEOやフリーダ・ジャンニーニ(Frida Giannini)クリエイティブ・ディレクター、「グッチ」を傘下に持つPPRのフランソワ・アンリ・ピノー(Francois-Henri Pinault)CEOらが集結。

 モナコ公女のシャルロット・カシラギ(Charlotte Casiraghi)や女優のカミーラ・ベル(Camilla Belle)、米「ヴォーグ(VOGUE)」のアナ・ウィンター(Anna Wintour)編集長、伊「ヴォーグ」のフランカ・ソッツァーニ(Franca Sozzani)編集長などセレブリティも多く祝福に駆けつけ、ロックバンド「ブロンディ(BLONDIE)」によるライブパフォーマンスやディナーを楽しんだ



ヴァレンティノ(Valentino)のメゾン創立45周年記念式典が7月6から8日にわたりイタリア・ローマ市内で行われた。期間中には、アラ・パチス博物館(Museo dell’Ara Pacis)での回顧展オープニングレセプションや、07/08年秋冬オートクチュールコレクション、記念ディナーパーティーなどが開かれた。会場には、モナコ公国のカロリーヌ・ド・モナコ(キャロライン公女:Caroline de Monaco)や息子のアンドレア・カシラギ(Andrea Casiraghi)、娘のシャルロット・カシラギ(Charlotte Casiraghi)をはじめとした多くのゲストが祝福に駆け付けた

◆イタリアの高級ブランド「グッチ」の顔にシャルロット・カシラギ嬢(25歳)が抜擢されたことが分かった。シャルロット・カシラギはモナコ公国のカロリーヌ公女の娘。つまり、あの女優グレース・ケリーの孫娘にあたり、クラシカルな美貌がグレースのDNAを受け継いでいると言われる。美しいだけではない。シャルロットはソルボンヌ大学で哲学を修めた才媛で、乗馬の名手。グッチとはその乗馬コレクションでパートナーシップを結んできた間柄だ。

モナコ公国の公位継承権4位で、将来は莫大な遺産を受け継ぐことになっている。5歳の誕生日にサルデーニャに近い島(約900万ドルの価値があるといわれている)をプレゼントされたというエピソードは有名だ。巷で幅を利かせるスーパーモデルたちとは格が違う正真正銘のスーパーセレブなお姫様である。

母親と違ってゴシップに無縁の清楚で知的イメージ

モナコ公国の人々は派手な私生活が取りざたされることが多い。シャルロットのママであるカロリーヌは数々の恋愛遍歴と奔放な私生活でゴシップ紙の常連だった。その彼女が恋に落ち、デキ婚したイケメンのイタリア人実業家、ステファノ・カシラギとの間に生まれた2番目の子供がシャルロットだ。ちなみに、シャルロットの兄のアンドレアも少女漫画の世界から飛び出したような王子様系ルックスの超イケメンです。

これまで大きなスキャンダルもなく、清楚で知的なイメージのシャルロットだが、グッチという巨大なメゾンの顔となることで、今後メディア露出がさらに増えそうだ。このまま母親と同じ道を歩まず、祖母であるグレース・ケリーの路線で突っ走れると良いのだが。

◆モナコ公国のシャルロット・カシラギ公女がグッチの新しい顔に起用された。モナコ公妃故グレース・ケリーの孫にあたるシャルロット公女は、馬術競技大会出場時において2年間同ブランドが特別にデザインした乗馬用衣装を着用していたことから、グッチとは親密な関係にある。

 シャルロット公女との提携当初、同ブランドのクリエイティブ・ディレクターを務めるフリーダ・ジャンニーニは、公女が自分にとってのファッションアイコン、トップ15の中に入ると話していた。「彼女は現代のスタイルに反する、力の抜けた優雅さを携えた現代の皇族です」。

 モデルである母に続き、シャルロット公女は2011年9月にフランス版ヴォーグの表紙を飾っており、この2年間には主要なファッションショーを最前列で鑑賞している。その公女は先日、大富豪ガイ・デラルの息子アレックス・デラルと4年間の交際の末、破局した。



★シャルロット・マリー・ポメリーヌ・カシラギ(Charlotte Marie Pomeline Casiraghi,1986年8月3日-)は、モナコ公国の人物。

父はイタリア人実業家ステファノ・カシラギ、母はモナコ公女カロリーヌ。

兄にアンドレア・カシラギ、弟にピエール・カシラギ、異父妹にアレクサンドラ・フォン・ハノーファーがいる。

ソルボンヌ大学で哲学の学士号を取得、フランス語、英語、イタリア語に精通
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2012年02月28日

アンジェリーナ・ジョリー(Angelina Jolie)とJ.Loことジェニファー・ロペス(Jennifer Lopez)の体の一部がTwitterで話題に


第84回アカデミー賞(Academy Awards)授賞式で注目を集めたアンジェリーナ・ジョリー(Angelina Jolie)とJ.Loことジェニファー・ロペス(Jennifer Lopez)の体の一部が、勝手にツイッター(Twitter)を始めてしまったようだ。



 ジョリーは授賞式のステージ上で、スリットが大きく開いたドレスから大胆に太ももを見せつけ、視聴者を驚かせた。

 すると1時間もしないうちに、@AngiesRightLeg(アンジーの右脚)というアカウントがツイッターに登録された。自己紹介は「私はアンジェリーナ・ジョリーの右脚」。翌朝には1万5500人以上のフォロワーが殺到した。

 脚のつぶやきは、ジョリーが舞台に現れた45分後に投稿された。

「私を見て!」

「ここですよ!」「脚です、とくと御覧なさい!」

 さらに脚は、「疑う余地はありませんね。私は相当いい脚です」と続けた。

 また、ドレスから乳輪が見えたのではないかと噂になったジェニファー・ロペスをネタにした@JLosNipple(J.Loの乳首)も、問題の場面からわずか数分で登場。自己紹介には、「私を見た?」と書かれている。




 つぶやきの内容は、「J.Loのせいじゃないんです。息が出来なかっただけ」など。ただしこの「衣装の不備」問題は、ジョリーの意図的な脚自慢と比べるとかなり不明確だと追記しなければならない。



米ハリウッド(Hollywood)で開催の第84回アカデミー賞(Academy Awards)授賞式にプレゼンターとして登場したジェニファー・ロペス(Jennifer Lopez、左)。右はキャメロン・ディアス(Cameron Diaz)



 @JLosNippleのフォロワーは27日朝の時点でわずか2500人。@JLosNippleは、「脚の方が長くテレビに映ってた…テレビ局にしてやられた。ジャネット・ジャクソン(Janet Jackson)のせいだ!」と文句たらたらだ。ジャクソンは2004年のスーパーボウル(Super Bowl)のハーフタイムショーで胸を露出して大問題となった。

 興味深いことに、@AngiesRightLegがフォローしているアカウントは1件のみ。@JLosNippleだ。
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2012年02月03日

サッカー選手デビッド・ベッカムが、英ヒート(HEAT)誌の12年度「地球上で最もセクシーな男(Sexiest Man on the Planet)」ランキング1位に



サッカー選手デビッド・ベッカムが、英ヒート(HEAT)誌の12年度「地球上で最もセクシーな男(Sexiest Man on the Planet)」ランキング1位に輝いた。

 同ランキングは、ヒート誌の読者1000人やエディター、プレミア・モデルズ(Premier Models)創設者キャロル・ホワイト(Carole White)、カメラマンのニック・ジョンストン(Nicky Johnston)ら審査員の投票により決定した。

 ヒート誌のエディター、ルーシー・ケイヴ(Lucie Cave)は「デビッド・ベッカム以上に“2012年地球上で最もセクシーな男”という称号に値する人物はいません。彼は才能、容姿、セックスアピール、 カリスマ性など多くの要素を持っています。女性は彼に夢中になり、男性は彼になりたいと願うのです」とコメントした。

以下、地球上で最もセクシーな男トップ10。



1位:デビッド・ベッカム(David Beckham)/サッカー選手
2位:ライアン・ゴズリング(Ryan Gosling)/俳優
3位:ライアン・レイノルズ(Ryan Reynolds)/俳優
4位:ブラッドリー・クーパー(Bradley Cooper)/俳優
5位:ジェイク・ギレンホール(Jake Gyllenhaal)/俳優
6位:ロバート・パティンソン(Robert Pattinson)/俳優
7位:トム・ハーディ(Tom Hardy)/俳優
8位:ジョニー・デップ(Johnny Depp)/俳優
9位:ヒュー・ジャックマン(Hugh Jackman)/俳優
10位:ザック・エフロン(Zac Efron)/俳優

★デイビッド・ロバート・ジョゼフ・ベッカム OBE(David Robert Joseph Beckham OBE, 1975年5月2日 - )は、イギリス、イングランド出身のサッカー選手。メジャーリーグサッカーのロサンゼルス・ギャラクシー所属。ポジションはミッドフィールダー。イングランド代表にも選出されている。

FIFA最優秀選手賞では2位に2度選出され、2004年に初めて最も収入を得たサッカー選手となり、英国人として初めてUEFAチャンピオンズリーグ100試合出場を達成した。2003年と2004年のGoogleのスポーツ部門で最も多く検索された人物である。そのような高い知名度を持つことから多くの広告に起用され、ファッション・アイコンとしても注目を集めている。2000年11月15日から、2006 FIFAワールドカップまで、58試合でイングランド代表のキャプテンを務めた。その後も代表に選出され、2008年3月26日に行われたフランス代表戦で100キャップ目を記録し、フィールドプレイヤーとしては最多のキャップ数を誇っている。

2007年7月1日にMLS史上最高額でロサンゼルス・ギャラクシーと契約を結び[13]、2007、2008、2009年は年650万ドルを受け取っている。2010年の調査によると、スポンサー収入などを含めた推定年収は4,370万ドルであり、世界の全サッカー選手で第1位である。

1999年にスパイス・ガールズのヴィクトリア・ベッカム(旧姓アダムス)と結婚した。




来歴

生い立ち

1975年5月2日、ロンドン北東部に位置する下町レイトンストーンに配管工(鉛管工)の父デイビッド・エドワード・ベッカムと美容師の母サンドラの間に長男として生まれた。後に一家はさらに北へ行ったチングフォードに引っ越し、ベッカムはここで少年時代を過ごしている。兄弟は、姉のリン(1972年 - )と妹のジョアン(1980年 - )がいる。

1982年に地元の創設まもないリッジウェイ・ローヴァーズ(現在のブリムズダウン・ローヴァーズFC)に入団。ベッカムは3シーズンで115試合に出場し101得点を挙げ[21]、1986年にはウェストハム・ユナイテッドから誘いを受けるも、時期尚早との判断で最終的に6年間在籍した。並行して学校での試合にも参加し、ベッカムは地区と州の代表に選出されている。

また1985年と1986年にボビー・チャールトンが主宰する全国規模のサッカースクールに参加すると、後者ではそこで実施された技術テストでロンドン地区の優勝者となり、ユナイテッドの旧練習場とオールド・トラッフォードで行われた決勝戦では過去6年間での最高得点を挙げ優勝した。ちなみに入賞の賞品は、バルセロナでの2週間の合同練習であった。

ロンドン北部の諸クラブから誘いを受け、近所のトッテナム・ホットスパーの養成スクールにも毎週月曜日に通っていたが、1988年5月2日にマンチェスター・ユナイテッドFCの学生準会員となり[27]、1989年8月に晴れて学生会員となった。1991年7月8日に契約金29.50ポンド+週給10ポンドの手当で練習生の契約を結んだ。

練習生・レンタル時代

1992年5月、練習生1年目の17歳以下の選手が中心に構成されたチームはFAユースカップを優勝。大会当初はフィジカル的に難があったベッカムは外れていたが、最終的に右サイドハーフを担当していたキース・ギレスピーが前線へ移動したことで出場機会に恵まれ、決勝のクリスタル・パレス戦のセカンドレグでは1得点を挙げチームの優勝に貢献した。

翌年の同大会も決勝まで駒を進めたが、リーズ・ユナイテッドAFCに敗れて準優勝。同時期の選手達は揃ってリザーブチームに昇格し、Aリーグとセントラル・リーグで優勝するという20年ぶりの快挙を成し遂げた。

1992-93シーズン、9月23日に行われたリーグカップのブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンFC戦に後半から途中出場し、トップデビューを果たす。1993年1月23日にプロ契約を結び、翌シーズンも序盤にレギュラー選手の休養に乗じてリーグカップに数回出場。1994年12月7日のUEFAチャンピオンズリーグ、第6節のガラタサライ戦に先発出場すると、トップチームでの自身初のゴールを挙げた。

1994-95シーズン、経験を積むために1か月間のレンタル移籍で、当時リーグ2所属のプレストン・ノースエンドに加入。当時の監督ギャリー・ピーターズの命によりフリーキックとコーナーキックを任せられ、5試合に出場し(1試合は途中出場、3勝2分)FKとオリンピックゴールによる2得点を挙げた。故障者が続出していたユナイテッドに復帰すると、1995年4月2日のリーズ・ユナイテッド戦にスターティングメンバーとして出場し、プレミアリーグデビューを果たした。

マンチェスター・ユナイテッド

ユナイテッドの監督であるアレックス・ファーガソンは、クラブの若手選手に大きな期待を寄せており、ベッカムはニッキー・バット、ガリーとフィルのネヴィル兄弟らとともに、1990年代にファーガソンが連れてきた「ファーガソンのひな鳥」と呼ばれる選手たちの一人であった。

1994-95シーズンを最後に、ポール・インスやマーク・ヒューズ、アンドレイ・カンチェルスキスといった経験豊富な選手がクラブを去ったが、ファーガソンは、スター選手たちが移籍した代わりに、他のクラブの有名な選手(ユナイテッドは夏にダレン・アンダートン、マルク・オーフェルマルス、ロベルト・バッジョの獲得を試みたが契約には至らなかった)を獲得するのではなく、クラブの下部組織出身の選手を代わりに起用することを決めたが、多くの批判を招いた。ベッカムはゴールを決めたが、開幕戦でアストン・ヴィラFCに1-3で敗れ、アラン・ハンセンの「子供ばかりでは勝てない」という言葉に代表されるように多くの者がリーグでのユナイテッドの苦戦を予想したものの、その後6連勝をし、若手選手たちは好パフォーマンスを披露した。

ベッカムはすぐに右サイドハーフのポジションを掴み、FAカップ準決勝のチェルシーFC戦でゴールを決め、決勝戦ではエリック・カントナのゴールをアシストするなどの活躍をし、クラブのリーグとFAカップのタイトル獲得に貢献した。ベッカムが初めて獲得したタイトルは、新年まで10ポイントの差を付けられていたニューカッスル・ユナイテッドFCを逆転して得たものであった。

マンチェスター・ユナイテッドでレギュラーとしてプレイし、活躍もしていたがEURO96以前に代表に招集されることはなかった。

1996-97シーズン開幕前にベッカムは背番号10を与えられた。1996年8月17日のプレミアリーグ開幕戦のウィンブルドンFC戦でハーフウェイライン手前から、ゴールキーパーの頭上を越えるロングシュートを決め、ベッカムの名前はイングランド中に知れ渡った。

ベッカムが自身のこの最も有名なゴールを決めた時、彼が履いていたスパイクは誤ってベッカムに支給された、チャーリー・ミラーのためにカスタマイズされたスパイクであった。ベッカムはプレミアリーグ連覇を達成したチームの不動のレギュラーであり、シーズン終了後にはPFA年間最優秀若手選手賞を受賞した。

1997年5月18日にエリック・カントナが現役引退を発表し、テディ・シェリンガムがクラブに加入したことに伴い、ベッカムは10番をシェリンガムに譲り、カントナが付けていた7番を背負うことになった。ファンの中には、カントナ引退後には7番を永久欠番にすることを望む人もいたが、今日まで使用され続けている。

1997-98シーズンも好スタートを切ったが、シーズン後半に失速しアーセナルFCに次いで、2位でシーズンを終えた[35]。

1998-99シーズン、クラブはプレミアリーグとFAカップ、チャンピオンズリーグのトレブルを達成し、ベッカムもその一員であった。ワールドカップ終了後で特に多くの批判を浴びていた時期であり、様々な憶測が飛び交ったが、ベッカムはマンチェスター・ユナイテッドに残留するという決断を下したのであった。

リーグのタイトルを獲得するためには最終戦でホームのトッテナム・ホットスパーFC(ライバルクラブであるアーセナルの連覇を阻止するために、容易に負けるのではないかと言われていた)戦で勝利する必要があったが、開始早々にトッテナムがリードを奪った。その後ベッカムが同点ゴールを決め、チームは逆転で勝利し、リーグ優勝を果たした。

FAカップ決勝のニューカッスル・ユナイテッドFC戦とチャンピオンズリーグ決勝のバイエルン・ミュンヘン戦は、本来の選手が出場停止であったため、センターハーフのポジションで出場した。チャンピオンズリーグは、ユナイテッドは試合終了間際まで0-1でリードされていたが、インジュリー・タイムに2ゴールを挙げ、トロフィーを勝ち取った。2ゴールともベッカムのコーナーキックをきっかけに生まれたものであった。これらのアシストやシーズンを通して見せた素晴らしい活躍が評価され、バロンドールとFIFA最優秀選手賞では、いずれもリヴァウドに次いで2位に選出された。

FIFAクラブ世界選手権のネカサ戦で故意のファールで退場処分を受けた後にも批判を浴びた。プレスの間では、妻が悪い影響を与えており、ベッカムを売ることがユナイテッドにとってプラスになるのではないかと囁かれるようになった[36]。しかし、監督は彼を支持しクラブに留まることになった。1999-2000シーズン中には、イタリアのユヴェントスへの移籍の話があったが、結局は何も起こらなかった。

しかし、ベッカムがサッカーから離れたところから名声を得始めたことによって、2000年の初めからファーガソンとベッカムの関係は悪化し始めた。2000年にベッカムは嘔吐下痢症に感染した息子のブルックリンを看病するために練習を欠席する許可を得たが、ファーガソンは、同日にロンドン・ファッション・ウィークのイベントで写真撮影をされていたヴィクトリア・ベッカムが子どもの看病をすればベッカムは練習に参加することが出来たと激怒し、ベッカムに対してクラブでの最大の罰金(2週間分の給料、ベッカムの場合は50,000ポンド)を科し、ユナイテッドのライバルであるリーズ・ユナイテッドAFCとの重要な試合のメンバーから外した。ファーガソンは後に自叙伝の中で、「チームメイトに対してフェアではなかった」として批判し、ベッカムを非難した。しかし、ユナイテッドは記録的な差でリーグのタイトルを獲得し、ベッカムもタイトル獲得に貢献した。

「結婚するまで彼は何の問題もなかった。夜にはよくアカデミーでコーチをしたりと素晴らしい若者だった。しかし、結婚によってエンターテイメントシーンへ入ってしまったことが問題だった。その瞬間から彼の生活は決して以前のようにはならなくなってしまったし、彼はそのような有名人になってしまった。サッカーはそのほんの一部に過ぎない。」(アレックス・ファーガソンが2007年にベッカムの結婚について語った言葉)

ベッカムは連覇に貢献し、1999-2000シーズンは、2位のアーセナルに18ポイント差を付けて優勝し、残り11試合を11連勝で飾り首位を快走した。連勝中にベッカムは5ゴールを挙げ、シーズンを通して6ゴール、全公式戦で8ゴールを記録した。

ベッカムは3連覇を達成した2000-01シーズンのユナイテッドの中心選手であった。ベッカムはリーグ戦で9ゴールを挙げた。

2002年4月10日、チャンピオンズリーグのデポルティーボ・ラ・コルーニャ戦で左足の第二中足骨を骨折した。怪我をさせた選手がイングランドがワールドカップで対戦することになっているアルゼンチンのアルド・ドゥシェルという選手であったため、イギリスのメディアの間では故意に負わせた怪我ではないかとの憶測が生まれた。

怪我により、ベッカムは残りのシーズンを棒に振り、クラブもリーグのタイトルを逃した。大部分は彼への肖像権料の支払いの割合についてであったが、数か月に及ぶ交渉の末、3年間の契約延長にサインした。新しい契約による給料の増加と広告収入により、ベッカムは世界で一番収入を得ているサッカー選手となった。

2001-02シーズンは、ユナイテッドの選手として、ベッカムにとっての最高のシーズンであった。リーグ戦28試合に出場し11ゴール、全公式戦42試合に出場し16ゴールの成績を残した。

怪我から回復して迎えた2002-03シーズンであったが、オーレ・グンナー・スールシャールがベッカムに代わって右サイドでプレイしており、マンチェスター・ユナイテッドで以前のようにポジションを得ることが出来なかった。監督との関係も2003年2月15日に行われたFAカップのアーセナル戦後に悪化。ドレッシングルームで敗退に怒ったファーガソンがスパイクを蹴り上げ、それがベッカムの目の上を直撃し、縫合が必要な傷を負ってしまった。この事件をきっかけとして、多くの移籍の噂が巻き起こり、ブックメーカーは、ベッカムとファーガソンのどちらが先にクラブを去るかを対象とした賭けを始めた。チームは低調なスタートを切ったが、12月頃から立ち直り、リーグ優勝を果たした。ベッカムは全公式戦を通して52試合に出場し、11ゴールを挙げた。

ベッカムは、イングランド代表ではレギュラーとしてプレイし続けており、6月13日にOBEを受勲した。

ベッカムはプレミアリーグで265試合に出場し、61ゴール、チャンピオンズリーグでは81試合に出場し、15ゴールの成績を残した。6度のリーグ優勝と2度のFAカップ優勝、チャンピオンズリーグとインターコンチネンタルカップ、FAユースカップのタイトルを12年間の間に獲得した。

レアル・マドリード

2003年、ジョアン・ラポルタがFCバルセロナの会長に立候補した際、ベッカムの獲得を公約に掲げた。マンチェスター・ユナイテッドはFCバルセロナへの移籍を望んでいたが、ベッカムはレアル・マドリードを選択し、4年間の契約を結んだ。移籍金は約3500万ユーロだとされている。手続きは2003年7月1日に完了し、ローリー・カニンガム、スティーブ・マクマナマンに続いて、レアル・マドリードでプレイするイギリス人のサッカー選手となった。

マンチェスター・ユナイテッドとイングランド代表では7番を付けていたが、クラブのキャプテンであるラウル・ゴンサレスが付けている背番号であったため、7番を選ぶことはできず、ベッカムは23番を選択した。その選択の理由は、尊敬するバスケットボール選手のマイケル・ジョーダンが付けていた番号であるからだと言われている。

2003-2004シーズン、レアル・マドリードは4位でシーズンを終了し、チャンピオンズリーグでも準々決勝で敗退したが、ベッカムは開幕戦でのゴールを含め、最初の公式戦16試合で5ゴールを挙げ、すぐにサポーターのお気に入りとなった。しかし、リーグかチャンピオンズリーグのいずれかのタイトルを獲得することを望んでいた会長の期待には応えることは出来なかった。また、このシーズンからは、チーム事情により、センターハーフでのプレーが主だった。

2004-05シーズン、チームは無冠に終わる。ベッカムは、移籍後長らくセンターハーフでプレーしていたが、冬に中盤の守備を担えるトーマス・グラベセンが加入したことと当時監督だったルシェンブルゴとルイス・フィーゴの確執に伴い、2005年に入ってからはフィーゴに代わって右サイドハーフとして出場する機会が増えた。右サイドで出場した2005年のエル・クラシコではマイケル・オーウェンへのアシストを含め2アシストを記録し、移籍後最高のパフォーマンスと称される程の活躍をして4-2の勝利に貢献した。その後もベッカムは右サイドハーフとして出場を続け好パフォーマンスを披露し、リーグで最も多くのアシストを記録した選手となった。

2005-06シーズンは、フィーゴの移籍に伴い右サイドハーフに定着したが、優勝したバルセロナに12ポイント差を付けられての2位に終わり、チャンピオンズリーグでは、アーセナルFCに決勝トーナメント1回戦で敗れた。

2006-07シーズンは監督に就任したファビオ・カペッロの好みにより、当初はスターティングメンバーで出場したが、ベッカムがスターティングメンバーとして出場した最初の9試合で、レアルは7ポイントを落とし、スピードのある新加入選手のホセ・アントニオ・レジェスに右サイドのポジションを奪われた。2007年1月10日、長引いた交渉の末に、スポーツディレクターを務めていたプレドラグ・ミヤトヴィッチは、シーズン終了後にクラブを去ると発表したが、あれは誤訳であり、実際には再交渉はまだ始っていないと言ったのだと主張した。

そして1月11日、ベッカムはロサンゼルス・キャラクシーと7月1日からの5年間の契約を結んだと発表した。1月13日にカペッロは、ベッカムは練習は続けるが、レアル・マドリードでの最後の試合を終えたと述べ、今後の試合では起用しないことを示唆した]。

しかし、常に練習を懸命に行う彼の姿を見てラウールやグティがカペッロに出場を懇願し、チームも低迷していたこともあり、カペッロは2月10日のレアル・ソシエダ戦のメンバーに招集し、ベッカムはゴールを決め、チームも試合に勝利した。その後、満足な活躍ができていないレジェスとは対照的にベッカムは好パフォーマンスを披露し、レジェスからポジションを奪い返した。

ベッカムの最後のチャンピオンズリーグ出場となったのは、2007年3月7日のバイエルン・ミュンヘン戦であり、本戦出場数通算103試合は、当時3番目に多い記録であった。2007年6月17日、ベッカムはレアル・マドリードでの最後の試合となったマジョルカ戦に出場、チームは3-1で勝利した。足を痛めたベッカムと交代で出場したレジェスが、2得点を挙げ、ベッカムはクラブ加入以来初めて、リーガ・エスパニョーラのタイトルを獲得した。

シーズン終了後、レアル・マドリードは、ベッカムのロサンゼルス・ギャラクシーへの移籍を解消するために交渉していると発表したが、ギャラクシー側が拒否したため試みは失敗に終わった。

レアルでのキャリア終了の1ヶ月後に、アメリカの経済誌『フォーブス』は、ベッカムは広告塔としてクラブのグッズ販売に貢献し、在籍4シーズンで6億ドルにも上る売上を記録したと報じた。

ロサンゼルス・ギャラクシー

ギャラクシーでキャプテンを務めるベッカム
2007年1月11日、ベッカムはレアル・マドリードを離れ、特別指定選手制度(Designated Player Rule)を使用してメジャーリーグサッカーのロサンゼルス・ギャラクシーへ移籍することが明らかになり、翌日のMLSのスーパードラフトの際に公式な記者会見が開かれた。

ベッカムとロサンゼルス・ギャラクシーとの契約は7月11日に結ばれ、13日にホーム・デポ・センターでギャラクシーへの入団発表が行われた。ベッカムは23番を選び、入団発表前に既にギャラクシーのレプリカユニフォームの販売枚数は250,000枚以上の記録的な販売数になっているとことの報道がなされた。

ギャラクシーでのデビュー戦は、7月21日に行われたワールドシリーズのチェルシーFC戦であり、0-1で敗れたが、ベッカムは78分から出場した。8月9日のD.C. ユナイテッド戦に途中出場し、リーグデビューを果たした。

翌週のスーパーリーガ準決勝のD.C.ユナイテッド戦はで初めてスターティングメンバーとして出場し、キャプテンを務めた。試合中にイエローカードを貰いはしたものの、前半にフリーキックから初ゴールを決め、後半にはランドン・ドノバンの得点をアシストした。チームも2-0で勝利し、8月29日のパチューカとの決勝戦に進むことになった。決勝戦でベッカムは右足の膝を負傷し、MRIを行った結果、内側側副靭帯の損傷であることが判明し、その後6週間チームから離脱することになった。チームに復帰したのはシーズンの最終戦であった。

10月21日に行われたシカゴ・ファイアーとの最終戦でベッカムは途中交代で出場したが、チームは0-1で敗れ、プレーオフに進出することは出来なかった。 デビューシーズンはリーグ戦5試合を含め、8試合に出場、リーグ戦では得点を挙げられなかったが、2アシストを記録した。

ベッカムは2008年1月4日から、ギャラクシーのプレシーズンが始まるまでの3週間、アーセナルの練習に参加した。

リーグ戦での初ゴールは、4月3日のサンノゼ・アースクエイクス戦の前半9分に決めたものであった[61]。5月24日のカンザスシティ・ウィザーズ戦で3-1で勝ち、チームは西カンファレンスの首位に浮上した。その試合の終了間際に、ベッカムは1996年に決めたゴールと同じような位置から、無人のゴールへシュートを入れた。しかし、ギャラクシーは最終的にカンファレンス6位の成績に終わり、プレーオフ進出を果たすことは出来なかった。

2009年シーズンは、ACミランとのレンタル契約延長のため、シーズンの前半を欠場し、そのために2009年7月19日に行われたACミランとの親善試合でファンから「詐欺師」などとブーイングを浴びるなど、チームに復帰したベッカムを良く思わないファンもいたが、ギャラクシーは近年で最も良いシーズンを送り、ベッカム復帰後にチームは西カンファレンスの3位から首位に浮上した。

ベッカムはチームの中心選手として活躍し、MLSカップではヒューストン・ダイナモを2-0で降し、決勝進出を果たした。2009年11月22日に行われた決勝のレアル・ソルトレイク戦ではベッカムもフル出場したが、延長戦を終えても1-1のまま決着はつかず、PK戦の末に4-5で敗れた。

ACミラン

ワールドカップの予選はMLSのシーズンオフにも行われるためベッカムは、ファビオ・カペッロ率いるイングランド代表でプレイするためのコンディションを維持するために、ヨーロッパに戻るのでないかとの噂が流れ、2008年10月22日にACミランは、2009年1月7日から、ベッカムがレンタルで加入すると発表した。様々な憶測がなされたが、ベッカムはMLSを去る意思はなく、2009年3月の開幕にはギャラクシーに戻ると明らかにした。一部からは、マーケティング目的の移籍であると揶揄されたが、ミランはチームを強化するために必要な移籍であると主張した。7番と23番は既に他の選手が付けていたため、ベッカムは32番を選んだ。メディカルチェックを終えたベッカムは、クラブの医師から、38歳になる5年後までサッカー選手としてプレイすることが可能だと告げられた。

2009年1月10日の2-2で引き分けたASローマ戦でスターティングメンバーとして89分まで出場し、セリエAデビューを飾り[70]、4-1で勝利した1月25日のボローニャFC戦で初ゴールを決めた。

3月にはミラノからロサンゼルスへ戻ることになっていたが、ベッカムは最初の4試合で2ゴールを挙げ、数アシストを記録するなどの活躍をすると、ベッカムはミランに残りたいと希望し、ミランもベッカム残留のために数百万ドルを支払う意思があるとの報道がされた。2月4日には、2010 FIFAワールドカップでイングランド代表としてプレイするためにも、ベッカムはミランに完全移籍することを求めていることが明らかになったが、ミランの提示した1000-1500万ドルの金額は、ギャラクシーのベッカムへの評価に見合う額ではなかった。

しかし、交渉は1ヶ月間続き、3月2日のロサンゼルス・タイムズは、ベッカムの移籍期間は7月中旬まで延長されたと報じ、ベッカムも7月中旬から、2009年のMLSのシーズン終了まで、ロサンゼルス・ギャラクシーでプレイをすると話した。

2009年11月、2010年1月から再びレンタルでACミランに加入することが明らかになった。セリエAに復帰して初めて迎えた2010年1月6日に行われたジェノアCFC戦にスターティングメンバーとして75分間出場し、チームも5-2で勝利した[77]。2010年2月16日には2003年にクラブを離れてから初めてマンチェスター・ユナイテッドFCと対戦し、ベッカムも76分間プレイしたが、チームはサン・シーロで行われたチャンピオンズリーグの決勝トーナメント1回戦のファーストレグを2-3で落とした。

2010年3月10日、ベッカムはセカンドレグの試合のためにミランの選手としてオールド・トラッフォードに帰還した。スターティングメンバーからは外れたが、交代で64分から出場すると、ファンからは温かい歓迎を受けた。オールド・トラッフォードでマンチェスター・ユナイテッドと対戦するのは初めての経験であったが、クロスとコーナーキックからチャンスを演出した。

しかし、チームは0-4で敗れ、トータルスコア2-7で1回戦敗退となってしまった[79]。その後に行われたACキエーヴォ・ヴェローナ戦にはスターティングメンバーとして出場したが、ベッカムはアキレス腱断裂の重傷を負ってしまった[80]。2010年3月15日にフィンランドのトゥルクでサカリ・オラヴァ医師の手術を受け、手術を終えたオラヴァは「現段階ではすべて上手くいっている。」と、述べた。

ロサンゼルス・ギャラクシー復帰後

2009-10シーズン終了後はロサンゼルス・ギャラクシーに復帰し、怪我が完治した9月11日には実戦にも復帰。2得点を挙げるなど、ギャラクシーの地区優勝とサポーターズシールド(レギュラーシーズン1位)獲得に貢献した。

シーズン終了後の2010年12月、プレミアリーグのトッテナムの監督であるハリー・レドナップがベッカムに興味を示していると報じられ、1月にはミランと同じように期限付き移籍での加入が目前とも報じられたが、保険の問題で破談となった。しかしレドナップはベッカムがチームにいい影響をもたらすとの判断から練習への参加を打診し、ベッカムとギャラクシーもこれを受諾した。

代表経歴

イングランド代表でキャプテンを務めるベッカム
1996年9月1日に行われたワールドカップ予選のモルドバ代表戦でA代表デビュー。

その後の予選の試合にも出場を続け、1998 FIFAワールドカップを戦うイングランド代表のメンバーに選出された[85]。監督を務めていたグレン・ホドルが、大会に集中できていないと判断し[86]、最初の2試合はスターティングメンバーから外されたが、3戦目のコロンビア代表戦でスターティングメンバーに抜擢されると、フリーキックからゴールを決め、2-0の勝利に貢献した。このゴールは、ベッカムの代表での初ゴールであった。

しかし、決勝トーナメント1回戦のアルゼンチン代表戦、ディエゴ・シメオネに報復攻撃を加え退場処分となり、また、チームもPK戦の末に敗退したこともあり、「10人のライオンと1人の愚かな若者」という標語をつけられ、戦犯としてメディアを含め多くの批判を浴び、ベッカムは死の脅迫をも受けた。

ベッカムへのファンによる批判がピークに達したのが、2-3で敗れたEURO 2000のポルトガル代表戦(ベッカムは2得点を演出した)である。サポーターは試合を通してベッカムにブーイングを浴びせ続けたが[89]、ベッカムはそれに対して右手の中指を立てて応えた。その行為もまた非難されたが、かつて彼を批判していた新聞社は読者に対し、もうベッカムを批判するのは止めるようにしようと求めた。

2000年11月15日、10月に監督を辞任したケヴィン・キーガンの後を継いだピーター・テイラー監督にキャプテンに指名され、続いて監督に就任したスヴェン・ゴラン・エリクソンの下でもキャプテンとしてプレイし続けることとなった。

ベッカムは、5-1で勝利したドイツ代表戦を含め、ワールドカップ最終予選で活躍を続けた。ギリシャ代表戦では、1-2とリードされている後半ロスタイム、同点となるフリーキックを決めイングランドをワールドカップ出場へと導いた。これらの活躍を通して、ベッカムがブーイングを浴び批判されるようなことはなくなった。その年は、BBCスポーツ・パーソナリティー・オブ・ザ・イヤーを受賞し、FIFA最優秀選手賞では2位に選ばれている。

怪我から回復し、2002 FIFAワールドカップ初戦のスウェーデン代表戦に出場を果たし、アルゼンチン代表戦では、PKからゴールを決めた。イングランド代表は準々決勝でブラジル代表に敗れ、ベスト8で大会を後にした。ベッカムは、翌月にマンチェスターで開催されたコモンウェルスゲームズの開会式に参加した。

EURO2004にもイングランド代表として出場したが、1-2で敗れたフランス代表戦でPKを失敗した他、準々決勝のポルトガル代表戦のPK戦でも最初のキッカーとして外してしまうなど活躍することは出来なかった。

2004年10月4日のウェールズ代表戦で、ベン・サッチャーにファウルを犯し、イエローカードを受け、累積で次戦のアゼルバイジャン代表戦は出場停止となった。ベッカムは試合中に肋骨を負傷していることに気付き、次の試合には出場できないことを悟り、イエローカードを貰うために意図的にファウルを犯したと明かした。イングランドサッカー協会は調査に乗り出し、ベッカムは「重大な過ちを犯してしまった」と認め謝罪をした。

ベッカムは、2005年1月にUNICEF親善大使に任命された。また、ロンドンでの開催を目指すオリンピックの誘致活動に参加し、大きな貢献をした[92]。2005年10月行われたオーストラリア代表戦で退場し、代表キャプテンとして初めて退場処分を受けた選手となり、イングランド代表として2度退場した初めての選手にもなった。

2006年6月10日、イングランド代表にとっての2006 FIFAワールドカップ初戦であるパラグアイ代表戦では、ベッカムのフリーキックがカルロス・ガマーラのオウンゴール引き起こし、イングランドは1-0で勝利した。6月15日に行われた2戦目のトリニダード・トバゴ代表戦では、83分にベッカムのクロスからピーター・クラウチのゴールが生まれ、終了間際には、スティーヴン・ジェラードのゴールもアシストした。試合は2-0で勝利し、大会スポンサーのバドワイザーが選出するマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた。

決勝トーナメント1回戦のエクアドル代表戦では、59分にフリーキックからゴールを決め、イングランド代表選手としてワールドカップ3大会で得点を挙げた初めての選手となり、試合も1-0で勝利し、準々決勝進出を果たした。ベッカムは試合前から体調が悪く、体調不良と脱水症状に陥いった結果、得点後もプレイを続けたが、試合中に数回嘔吐した。

準々決勝のポルトガル代表戦では、怪我のために52分で交代し、試合は延長戦を終えても0-0ままで、PK戦の末に敗れた。交代後ベッカムは、プレイできないことから目に見えて落胆しており、ベンチで涙を流した。

ワールドカップ敗退後の翌日、記者会見で代表キャプテンを退くとの声明を出した。「キャプテンとして代表を率いることはとても名誉な特権であり、代表では95試合(実際は94試合)に出場し、58試合でキャプテンを務めたが、チームはスティーブ・マクラーレン監督の下で新しい時代を開こうとしている時で、キャプテンマークを譲り渡すのが正しい選択であると考えている。」と、述べた。その後ジョン・テリーがキャプテンに就任した[94]。

キャプテン辞任後の2006年8月11日、スティーブ・マクラーレンは初めて代表を招集したが、ベッカムはメンバーから外れ、マクラーレンは「チームは新しい方向に進もうとしており、そこにベッカムは含まれていない。」と、述べた。ただし、将来的には呼ぶ可能性があると話した。ベッカムに代わって、ワールドカップのメンバーであったショーン・ライト=フィリップス、キーラン・リチャードソン、アーロン・レノンが起用されたが、マクラーレンは最終的に右サイドはスティーヴン・ジェラードに任せた。

2007年5月26日、マクラーレンは監督就任後に初めてベッカムを招集し、新しいウェンブリー・スタジアムで行われたブラジル代表との親善試合にスターティングメンバーとして出場し、後半にジョン・テリーのゴールをアシストするなど、良いパフォーマンスを見せた。

イングランドが勝利するかに思われたが、ジエゴの終了間際の得点により、1-1の引き分けに終わった。続くEURO2008予選のエストニア代表戦にも出場し、代名詞とも言えるクロスから、マイケル・オーウェンとピーター・クラウチのゴールをアシストし、3-0の勝利に貢献した。ベッカムは2試合で決まったゴールの内、3ゴールをアシストし、マクラーレンも「今の彼以上の右サイドの選手は、世界中探してもいない」と評価を改め、MLS移籍後も代表でプレイし続けたいというベッカムの願いは実現することになった。

2007年8月22日に行われたドイツ代表との親善試合に出場し、初めてヨーロッパ以外のクラブチームに所属しながら代表でプレイした選手となった。2007年11月11日のクロアチア代表との試合に途中出場し99キャップ目を記録すると、ピーター・クラウチの2-2となるゴールの起点なったが、2-3で敗れ、イングランドはEURO2008の出場権を逃してしまった。しかし、ベッカムは代表引退はせずに、これからも代表でのプレイを続けるとの意向を示した。その後、レアル・マドリード在籍時に監督を務めていたファビオ・カペッロが監督に就任した。初陣となるスイス代表との親善試合に出場すれば100キャップ目となるが、ベッカムは3ヶ月間試合に出場していないために体力面に問題があるとして、メンバーには加えなかった。

2008年3月20日、カペッロは、26日のフランス代表と親善試合に向けたメンバーにベッカムを招集した。ベッカムはスターティングメンバーとして試合に出場し、イングランド人として100キャップを記録した5人目の選手となった。

カペッロは、前日の会見でベッカムをフランス代表戦に起用すると明言し、将来的なことはこれから考えると話していた。2008年5月11日、カペッロは28日にウェンブリーで行われるアメリカ代表との試合と、6月1日にアウェー行われる試合に臨む代表メンバー31名を発表し、ベッカムもそこに含まれた。試合前にベッカムは100キャップを記念した金色の帽子を贈られ、サー・ボビー・チャールトンから渡された時には、観衆はスタンディングオベーションで讃えた。

試合では決勝ゴールとなったジョン・テリーのゴールをアシストし、後半から交代でデヴィッド・ベントリーがピッチに入った時に観衆は、その交代に対してブーイングを送った。6月1日のトリニダード・トバゴ代表戦では、カペッロはベッカムをキャプテンに指名し、ベッカムはワールドカップ以来、2年ぶりにキャプテンとして試合に出場した。

ワールドカップ予選のベラルーシ代表戦で87分から出場し107キャップを記録し、歴代3位のキャップ数となり、2009年2月11日に行われたスペイン代表との親善試合では、スチュワート・ダウニングに代わり後半から出場、代表108キャップ目を記録し、ボビー・ムーアの持つフィールドプレイヤーとしての最多出場数の記録に並び、イングランド代表歴代2位タイのキャップ数となった。

2009年3月28日のスロバキア代表との試合に途中出場し、ムーアの記録を更新し、試合ではウェイン・ルーニーのゴールをアシストした[103]。2009年6月10日のアンドラ代表戦でスターティングメンバーとして100試合目の出場を果たした。

2010 FIFAワールドカップは、怪我により選手として出場する機会は逃すことになったが、2010年5月14日にワールドカップに臨むコーチ陣と選手の間を取り持つ役を担いチームに帯同することが発表された。

獲得タイトル

クラブ
マンチェスター・ユナイテッド プレミアリーグ:1995-96, 1996-97, 1998-99, 1999-00, 2000-01, 2002-03
UEFAチャンピオンズリーグ:98-99
FAカップ:1996、1999年
インターコンチネンタルカップ:1999年
FAコミュニティーシールド:1993, 1994, 1996, 1997年
レアル・マドリード リーガ・エスパニョーラ:2006-07
スーペルコパ・デ・エスパーニャ:2003年
ロサンゼルス・ギャラクシー 地区優勝:2009, 2010
サポーターズ・シールド:2010

個人
PFA年間最優秀若手選手賞:1997年
サー・マット・バスビー賞:1997年
20世紀の偉大なサッカー選手100人 49位:1999年
UEFA年間最優秀選手:1999年
BBC スポーツ・パーソナリティ・オブ・ザ・イヤー:2001年
プレミアリーグ10周年記念ベストイレブン:2003年
プレミアリーグ10周年記念ベストゴール:2003年(1996年8月17日、ウィンブルドン戦でのゴール)
FIFA100:2004年
ESPY賞:2004, 2008年
PFAベストイレブン(1997-07):2007年
イングランドサッカー殿堂:2008年
PFA年間ベストイレブン:1997, 1998, 1999, 2000, 2002年
BBC スポーツ生涯功労賞:2010年

主な記録
練習生契約:1991年7月8日
プロ契約:1993年1月23日
初出場:1992年9月23日 対ブライトン&ホーヴ・アルビオン戦(リーグカップ、途中出場)
リーグ戦初出場:1995年4月2日 対リーズ・ユナイテッド戦
初ゴール:1994年12月7日 対ガラタサライ戦(UEFAチャンピオンズリーグ)
代表初キャップ:1996年9月1日 対モルドバ戦(FIFAワールドカップ予選)
初ゴール:1998年6月26日 対コロンビア戦(FIFAワールドカップフランス大会)


私生活

1997年にヴィクトリア・アダムズがマンチェスター・ユナイテッドの試合の観戦に訪れた後に、交際が始まった。彼女は当時世界的に有名なポップ・ミュージックグループであるスパイス・ガールズのメンバーの一人で「ポッシュ・スパイス」の愛称で知られていた。

そして、ベッカムが所属するチームもイングランドで数々の成功を収めているチームであった。そのため、二人の関係はメディアの多くの注目を集め、このカップルは「ポッシュ & ベックス」と呼ばれた。1998年1月24日にイングランドのチェスハントにあるレストランで、彼はヴィクトリアにプロポーズをした。

1999年7月4日にアイルランドにあるルトレスタウン・キャッスルで式を挙げ、ヴィクトリアの姓はベッカムとなった。この結婚披露宴は相当数のメディアを惹き付けた。チームメイトのガリー・ネヴィルがベストマンを務め、4か月の息子のブルックリンがリングベアラーの役を担った。ベッカムはOK!誌と独占契約を結んだため、その他のメディアは会場に入ることが出来なかったが、新聞社も金色の王座に座る二人の写真を入手することに成功し、新聞に掲載した。式には437名のスタッフが雇われ、推定で500,000ポンドの費用が係ったと見られている。

1999年にベッカム夫妻はロンドン北部のハートフォードシャーに今ではベッキンガム宮殿と呼ばれている邸宅を7,500万ポンドで購入した。デイヴィッドとヴィクトリアには3人の息子、ブルックリン・ジョセフ・ベッカム(1999年3月4日にロンドンで生まれた)、ロメオ・ジェームズ・ベッカム(2002年9月1日にロンドンで生まれた)、クルース・デイヴィッド・ベッカム(2005年2月20日にマドリードで生まれ、名前のCruzはスペイン語で十字架を意味する)がおり、ブルックリンとロメオのゴッドファーザーはエルトン・ジョンで、ゴッドマーザーはエリザベス・ハーレイである。二人は子どもはたくさん欲しいと話しており、特に今は娘が欲しいと述べている。

2003年、レアル・マドリードとの交渉の席にはヴィクトリアも出席し、移籍の公式発表の翌日にはスペインメディアから「女房の尻に敷かれた」と書かれた。

2004年7月、スペインでのプレシーズンのトレーニングに参加している時に、ガソリンの缶を運んでいた男が、ベッカムの家の壁を登って侵入するという事件が起こった。ヴィクトリアと子どもたちはその当時家にいたが、家にたどり着く前に警備員が侵入者を捕まえ難を逃れた。

資産

2007年4月に家族はベッカムのロサンゼルス・ギャラクシー移籍を踏まえて、ビバリーヒルズにイタリア風ヴィラを購入した。この建物は2,200万ドルで、近くにはトム・クルーズやケイティ・ホームズ、ジェイ・レノの家があり、街を一望できる丘の上に立つゲーテッドコミュニティである。

2008年4月にフランス・フットボール誌が発表した世界のサッカー選手の年収ランキング(年俸などに加え、スポンサー収入も含める)で第1位3100万ユーロ(約50億円)に選ばれた。2010年3月23日に発売された同誌によると世界のサッカー選手の年収ランキングでベッカムは第2位3040万ユーロ(約37億円)に転落している(ちなみに、第1位はリオネル・メッシの3300万ユーロ(約40億円)、第3位はクリスティアーノ・ロナウドの3000万ユーロ(約36億円)だった)。

2009年11月、カートゥーン・ネットワークが「未来のイギリスのトップセレブ」のランキングを発表し、ベッカム夫妻の息子のクルーズが30歳になったときの総資産額が推定3億4100万ポンド(日本円で約508億円)で2位、ブルックリンが30歳になったときの総資産額が推定2億5100万ポンド(日本円で約374億円)で8位、ロミオが30歳になったときの総資産額が推定2億7100万ポンド(日本円で約404億円)で7位にランクインした。このランキングはセレブの子どもたちの20年後の総資産額を推定して作られたものでスター性、推定相続額、才能、カメラ好き度、ショービジネス性などのいくつかのカテゴリーの総合で順位が決まる。クルーズが10歳の兄ブルックリンと7歳の兄ロミオを抜いて第2位にランクインした理由は母親のコンサートで踊っている姿が目撃されているからだという。

2011年5月、英サンデー・タイムズ紙が『お金持ちリスト』を発表し、ベッカム夫妻が総資産1億6,500万ポンド(日本円で約217億8,000万円)で1位になった。デビッドはロサンゼルス・ギャラクシーから2年間で5,600万ポンド(約73億9,200万円)の契約を結んでいるほか、2012年のロンドン・オリンピックでサムスンのブランド大使を務める契約をしており、相当な額になっているという。さらに妻ビクトリアのファッションブランドからも収入が入るため、今後もベッカム家の資産は増え続けることになりそうだという。

2011年6月、ハリウッド・レポーター紙によると、米ロサンゼルスの高級住宅地マリブにあるベッカムの別荘が夏の間だけの期間限定で月15万8000ドル(日本円で約1270万円)で賃貸に出されたという。この場所は海辺の閑静な高級住宅地でレオナルド・ディカプリオやメル・ギブソン、スティング、ジェームズ・キャメロンら多くのセレブが住んでいることで知られている。

「ベッカム現象」


ベッカムとその妻ヴィクトリア
2002年W杯以降、持ち前の甘いマスクで日本の女性たちから絶大な人気を獲得し、日本のマスコミからは「サッカー界の「ブラッド・ピット」や「ベッカム様」と呼んだ。ソフトバンクモバイル(旧・ボーダフォン日本法人)、ペプシコーラ、アディダス、東京ビューティーセンター (TBC)、明治製菓、リニューカー、M702iS(NTTドコモ)などのテレビCM出演でもお馴染みとなった。W杯で来日する際には空港に多くのファンが殺到し、滞日中はファンの山が後を絶たなかった。この歓迎ぶりはベッカムにとっても大きな驚きだったようで、キャリアの盛りを過ぎた後に日本でプレーする可能性を示唆したほどだった。

プレミアシップ発足後、マンチェスター・ユナイテッド(プレミアシップ優勝8回)をはじめ、多くのタイトル獲得に貢献した。しかし、チームの勢いが失墜し始めた頃、ファーガソン監督との確執が露呈し試合でもスタメン出場の機会が減り始めた。ベッカムのプレーからは泥臭さが消え、勝負をしかけることも少なくなっていった。ファーガソンは「昔はあんな奴じゃなかった」と語り、その原因が妻のヴィクトリアにあることをほのめかした。

この確執が原因で、03-04シーズンからレアル・マドリードに移籍した。この移籍の直後、マンチェスター・ユナイテッドはクリスティアーノ・ロナウドを獲得し、背番号7は彼がつけている。しかし、本人はインタビューにて「僕がイングランドに帰るとしたら、マンチェスター・ユナイテッドしかない。親父(ファーガソン)のことは今でも尊敬している」と語っている。ファーガソン自身も「デビッドの心には常にユナイテッドがある」と語っている。

2007年、欧州選抜チーム対マンチェスター・ユナイテッドの親善試合、欧州選抜チームのベッカムは怪我で出場できなかったが、ハーフタイムに4年ぶりにオールド・トラフォードに現れると、ユナイテッドのファンから盛大な拍手で迎え入れられた。 またこの事についてファーガソンは「デビッドはサポーターにきちんとさよならを言えずにスペインに行ったから、サポーターは喜ぶだろうね、とてもファンタスティクな事」と歓迎した。

主に右サイドのミッドフィールダーとしてプレーしているが、本人はセンターハーフを好んでいる。これはもちろんブライアン・ロブソンの影響である。しかし、右サイドを自分が一番活きるポジションだとも言っており、右サイドの方がやりやすいという自覚も持っているようだ。

その容姿からマーケティング面での貢献が非常に高く、レアル・マドリードは彼を獲得するために用意した約46億円ともいわれる移籍金を、彼のユニフォームの売上代金のみで取り戻したとも言われる。一方、チームは彼が加入して以来優勝から遠ざかってしまったことから、ファンからは「彼がレアルにした貢献はユニフォームの売り上げを伸ばしたことだけだ」と皮肉られた。

鳴り物入りでレアル・マドリードに加入したが、2006年まで優勝を経験していなかった。攻撃的なスター選手の多いチームにおいては、守備的な選手の重要性が問われており、特にベッカム獲得と同時期にマケレレを放出したことはレアル・マドリードにとって最大の失敗と言われている。それ以降3シーズン守備が安定せず、カマーチョ以後の監督の必須命題になっているがカペッロ・ミヤトビッチ体制になっても変わっていないことから、ベッカム本人の問題の域を超えている。2007年シーズンで念願の優勝を果たし批判を打ち消した。

ベッカムがレアル・マドリードとの契約延長にサインせず、アメリカ・ロサンゼルスギャラクシーへの移籍を発表した際、レアルのカルデロン会長はマドリー市内の大学の講義でチーム内の非難発言を繰り返した。その中で「ベッカムはアメリカ以外のどのチームからも依頼はなかった。彼はアメリカに行ってなんにでもなれるだろう」と発言し、発言を録音していた学生からラジオ局に流れ大問題に発展した。しかし実際はACミランやイングランドの複数のクラブから依頼があった事が後に明るみに出て、会長はミーティングの席でベッカムに謝罪した。

またこの一連の騒動に関してシーズン終了後に元チームメイトであるジダンは「レアル・マドリードは重大なミスを犯した。ベッカムを手放した事で来シーズン代わりの選手を探さなければならない。まぁ彼と同等の選手を探す事は不可能に近いだろうけどね」と語っている。

レアル・マドリードに加入した際、背番号7はラウールが既に着用しており、ベッカムの背番号に注目が集まったが、その番号は23番であった。驚きをもって迎えられたが、「マイケル・ジョーダンを尊敬していて、それにちなんだ」と報道されたが、のちに本人が「空いている番号でどれでもよかった」と語っている。一方で、ロサンゼルス・ギャラクシーへの移籍会見時には「背番号はマドリード時代と同じ23が良い。マイケル・ジョーダンを尊敬しているし、アメリカでは特別な番号だ。」と語った。

その他

ベッカムがロンドンに所有している邸宅はベッキンガム宮殿(Beckingham Palace)と呼ばれることがある。これはバッキンガム宮殿をもじったもの。高級住宅街があることで知られるハートフォードシャーに位置しており、ロンドン中心部から車で1時間程度の場所にある。約97,000m2の敷地面積がある。
幼少の頃からマンチェスターUの試合を必ずと言っていいほど正装で観戦し、かなりの敬意を表していた。また、欧州遠征で日本代表と対戦したときはジーコ監督(当時)に「小さい頃からファンだった」と試合前に正装をして挨拶に行ったこともある。

ベッカムの身体の各所には、妻や子供たちの名前がタトゥーとして刻まれている。左腕には、インドのヒンディー語等の言語で使用されるデーヴァナーガリー文字で『VHIKTORIYA』と彫られている。デーヴァナーガリー文字にはCの音をあらわす文字がないので、代わりにKが用いられる。英単語の語尾のAがYAに変わるのはインド英語の特徴である。VHIはスペル間違いである。

2002年日韓ワールドカップの際のヘアースタイル(ソフトモヒカン)が「ベッカムヘアー」と称され人気に。またその当時、イングランド代表のキャンプ地であった兵庫県の淡路島に滞在していた事もあり、神戸近郊によく出没していた。神戸市にある神戸大丸百貨店で閉店後に店舗を貸し切り、買い物をしたこともある。
明治製菓のバレンタインデーイベントで、チョコレート製の巨大ベッカム像が作られた。
レアル・マドリードの一員として来日した際、各メディア取材のはしご状態となったが、そのさ中「めちゃ×2イケてるッ!」(フジテレビ)「やべっち寿司」に出演し、彼が座った席は赤い座布団が縫いつけられている。また、その時食べた、かっぱ巻きが非常に気に入り、それ以来かっぱ巻きが大好物になったらしい。「SMAP×SMAP」(関西テレビ・フジテレビ系)の1コーナー「ビストロSMAP」では、チームの同僚のグティと出演している。

2003年、アディダスのラグビーCMで、ラグビー・イングランド代表、スタンドオフのジョニー・ウィルキンソンと競演。持ち前のキックセンスで、ラグビーのゴールキックも見事に決める。トルコ戦のPKの大ミスを「ウィルキンソンに影響されたから」とジョークにされた会見は有名である。ジョニー・ウィルキンソンは、「ラグビー界のベッカム」と言われている。

容姿の優れたヨーロッパ出身のスポーツ選手を「○○界のベッカム」と呼ぶことがある。上記のジョニー・ウィルキンソンや、スヌーカー(ビリヤード種目の一種)のプロ選手であるポール・ハンターなどが代表例。日本では琴欧洲が「角界のベッカム」と呼ばれることがある。

ロンドン近郊イーストロンドン(エセックス州寄り)レイトンストーン育ちの為、エセックス訛りの下町言葉を話す。
少年時代、天才サッカー少年としてテレビで紹介されたことがある。
2005-06シーズン途中、カリフォルニアとイーストロンドンにサッカー・アカデミーを設立し、2006年の英国文学賞の審査員に選ばれた。

2006年1月に愛車「BMW・X5」を盗まれるという被害に遭う。その車が2007年4月になりマケドニア共和国内務省大臣公用車になっていることが判明。ベッカムの熱狂的なファンだった内務省大臣(女性)は「取り戻したければマケドニアまで本人が取りに来ることが条件」と発言した。

ドイツワールドカップの欧州予選 北アイルランド対イングランド戦で相手DFの執拗なマークにあい感情をむき出しにしているチームメイトのルーニーを宥めているシーンもありイギリスの言葉で『サッカーは、子供を大人にし 大人を紳士にする』とあるように精神的にもチームのキャプテンとして成長した様子が伺える。
2006年、自身が強迫性障害であることをメディアに告白した。
2008年12月31日、ペプシとのコマーシャル契約を解消した。
ユース時代にはチームでいちばんヘディングが強かった。
趣味は切手集めとテディベアのコレクション。オークションで1800ポンドのテディベアをEBAYで購入したことが英国のBBCニュースで流れたことがある。またオーダーメードでバイクを注文するなど、バイク好きで知られている。



posted by kisebeauty at 21:18| Comment(0) | 美しい人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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